ドラッグ&ロックン・ロール

音楽家であり薬剤師。Ryo Masahiroのブログ

ゲーム感覚でやる音楽

 

 

1つ面白い内容について考えよう。

 

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(※あえてツイート元の人物や、本文中に書かれてる方の名前が見えないようにカットしてます。)

 

 

 

知る人ぞ知る彼の方が、こういった興味深い内容を書いていて、ここ最近の僕の考えてる事にヒットしたので今緊急、大急ぎで筆を取っている。

 

 

ゲーム感覚

 

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まず誤解のない様に言っておきたいのは、僕はこの内容が示したい事は自分なりにすごく理解できる。

 

そしてまた、別の方向で見ると、僕はゲームを否定したいわけではない。しかし、「ゲーム感覚」という言葉を使う以上、ある種の反感は存在するかも知れないので先に言う。

 

僕はゲームが死ぬほど好きだ

 

よし。これでオッケー。

 

さて。

 

これから、この内容を明確に示すために、色々と脱線した様に文字を運ぶが、どうか最後まで読んでほしいと思う。

 

これらは書き示すのに全て必要な内容だと思ってほしい。そしてそれを一見理解出来なかったら、よく考えることだ。

 

 

 

 

本題に入ろう。

 

先に示した画像の内容は僕も感じる所だが、これはごく当たり前だと思っていて、正直な話、本来ならわざわざ書くまでもない。その理由は簡単に予想できる。わざわざ書くまでもなく、そうなるべくして当たり前なのだ。この問題を解決しようとすると、おそらくはプレイヤーが生き方や環境を変えなければならないとさえ思う。それは時代もあり、世代もある。だからこそ、血の通った音楽が出来る僕らが音楽を続けて、示し続けなければならなくなるのだ。

 

彼らは知らないのだ、血の通った物と言うのを。

 

 

 

僕が好きなゲームというのはRPG要素のあるもの、それ一択。最悪ノベルゲームも良い。物語があるもの限る。それは小説を読んで泣いたり、映画を見て感動するのと同じで、創作物としての世界観がなによりも大好物なのだ。

 

人が作った世界。人が創造主になる瞬間。ゲームの中に存在するそれぞれ設定された物語を持ったキャラクター達。素晴らしい。

 

人が作ったものには本来、魂が宿る。八百万の神ではないが

 

暖かさがそこにある。

 

そして音楽にも同様に物語を感じている。人が作った音楽にもまた、本来なら魂が宿るのだ。

 

なので僕の中で『ゲーム感覚で作る音楽』という言葉が存在しており、それは『映画の様なライブをする』のと同じで

 

「ゲームに秘められた非現実感、あの感覚を音楽によって疑似体験させる」

 

事を目的としている。

 

映画で言えば

「まるで短編映画を見せられた様な感覚のライブだった」という解釈を目指して行うライブの演目だ。

 

もちろん解釈は人それぞれ別れて良い。作り手の明確な意図が暗喩的に存在していれば良いだけの話だ。

 

さて。話を戻そう。僕はこういった、他の創作物を想起させるくらいの音楽というのが、1つ自分の中では「真」である。

 

絵画は聴き、音楽は観よ

 

他の創作物がにじみ出た創作物は須らく素晴らしい!

 

リズムを感じる絵。そこに物語を感じて、頭の中では音楽が流れてくる。するとその絵が、絵なのに、動いて見えてくる。

 

物語を感じる音楽。するとそこではライブが行われてるはずなのに、いつだか自分は別世界に居て眼前には景色が広がっている。

 

そんな体験を私は幾度となくしてきたし、皆さんも一度はあるのではないだろうか?

 

(え?無い?いや、そんなはずはないだろう。)

 

かく言う私の演る音楽はそう言うものだ。是非、僕のバンド「The life plant」というインストゥルメンタルバンドがライブをやるときは見に来て欲しい。音楽から物語を感じ、頭の中に映像が浮かび上がる瞬間というのを観せてあげよう。

 

閑話休題、自分のバンドの宣伝はさて置き…

 

僕にとっては血の通った音楽やるというのは、

暖かみを感じさせる創作物であり、

物語を感じさせる物であり、

人とやる物、である。

 

そしてその為に必要な演奏スキルが存在するのだ。

 

その為には人の暖かさを知る必要があり

 

物語をいくつも取り込む必要があり

 

人に伝わる音を見聞きする必要がある

 

つまり、それらが存在する場所で生活して、選び取り、身を置く必要が出てくるわけだ。

 

 

例えば、

 

昨今ではFPSや対戦アクションゲーム、所謂オンライン対戦のようなゲームが流行っている。

 

今回ブログに取り上げてる「ゲーム感覚」というのはおそらくこれにとても近い様に思う。

 

勝敗が決まったり自分のプレイにスコアが割り当てられるゲームの感覚だ。

 

本来昔のゲーム、特にオンライン性のなかった時代のRPGというのは、向こう側に居るのは作り手だけであり、眼前のゲームの世界観には生きた生身の人間は居ない。

 

つまり、"他人様と競い合う性質がなかった"とも言い換えられるわけだ。

 

それ故に、徹底的に完成された世界観、現実を想起させる動きを見せるものは居らず、プレイヤーの操作するキャラクターのみ唯一、自分の意思で動かす事ができる。そしてその世界観を楽しむのに不必要なものの一切が排除された物に囲まれて生きてきたわけだ。

 

ゲームは元々、決められた時間軸と設定に沿って進むので、世界観から逸脱した行動は、できない様になっている。いくつかのパターンわけがしてあるものの、決まった物語と決まった反応しか起こらない。ゲームの世界観を崩す内容が一切ない、どこまでも作り込まれた、淀みのない非現実世界。徹底された内容なのだ。

 

小説やアニメ、映画と違うのは、消費者たる我々の意思を通して、プレイヤーキャラクターという形で我々が介入してる点だ。

 

なのにも関わらず世界観に一切の淀みがない、それがゲームの世界観。徹底されたものなのだ。自分の意思で物語を動かすのに、世界観に不必要なものは何1つとして一切許されない、それがRPG。(※オンラインを除く)

 

しかしここでいうゲーム感覚というのはそうではない。所謂、バッシングワードとしてのそれだ。

 

対戦ゲームでもいいし、RPGでもいい、育成ゲームでもいい。

 

オンラインになった瞬間、全てダメだ。終わり。現実が介入し、ゲームのアバターを通じた仮装コミュニケーションが成立する。その瞬間、ゲームの世界観は三次元に干渉し、その統一は図られなくなる。

 

つまり、ツイッターもそうだが、ゲームも、いまや何もかも、オンラインが発達したおかげで、何かをやるときに中途半端に人間関係が存在するようになった。

 

そしてその相手はゲームを通してしか観る事が出来ないのが普遍的になってしまった。

 

 

僕の世代ではポケットモンスターというゲームが流行ったのだが、

 

これは対戦型育成ロールプレイングというジャンルになる。

 

つまり、対戦ゲームではあったが、必ず近くに生身の人間が居た。ゲーム機と通信ケーブルのその先には必ず見える所に友達がいたのだ。

 

ゲームセンターでの対戦ゲームもそうだ。

ダーツだってそう。

 

対戦は出来たが、

 

すぐ向かいには人が居たし、隣に人がいて戦った。

 

そこには間違いなく人間と人間の血の通った戦いがあって、相手に敬意を示したものだ。

 

僕よりももっと前の世代には、ゲームなんてアナログゲームしかなかっただろう。

 

それなんて、もっと人間的だったはずだ。トランプなんてまさにそう、人間性が出る。

 

そして僕の世代で感じているよりも、前の世代の人らは、人間的である事を尊重しただろうし、対戦もよりスポーツ的だったと思う。スポーツはスポーツマンシップと言うのが存在するだろう?あれはまさに対戦相手に敬意を示した、いわば武士道の延長の様なものだ。

 

しかし今はなんだ。

 

対戦ゲームもダーツも、あまつさえ将棋やトランプやチェスまで

 

画面越しに居るかいないか分からない、顔も見えない相手と戦う事ができる。オンライン性だ。

 

これはゲームだけの話じゃないぞ。今じゃ効率を重視して、会話そのものがLINEやメール、電話でないから相手の声さえも聞こえない、

 

文字も。手紙じゃないんだ。

 

仕事の会議もオンラインミーティング

 

仕事だって作業効率化して機会が作ったものを後で人が組み立ててるだけだ。

 

今じゃ「手作り」なんてワードが貴重なもの扱い。本来なら、一昔前は、そんなこと書かなくても手作りだった。

 

しかし今は世の中の物の大半を機械が作っている。

 

同じなんだよ。ゲーム性も変わった。

 

暖かさが感じにくくなったのだ。

 

今の若い人達は人の暖かみを感じ辛い、そんな環境で育ってるんだ。

 

あまつさえ、筆者の僕だって、ギリギリの世代だ。ギリギリまだ暖かみがあった時代をしってる。ネットワークという仮想世界が流行りだすちょうどその境目を生きた世代が僕の世代。

 

僕は高校になり始めてネットをやった。もしかしたら同世代の皆はもう少し早くからやってたかもしれないが、僕は高校生からだった。

 

 

閑話休題、話を戻そう。

 

今は対戦式のゲームがとても流行っている時代だ。そんな事さえ、僕より前のゲームをやらない世代は知らないだろう?

 

今の若い人達が一体どんな生活を送っているか、想像してみて欲しい。そうすればわかる事だが、多分想像では無理だ。何故なら知らないから。

 

だから僕はこうやってブログを書いてる。

 

僕ら世代の人は思い出して欲しい。

 

オンラインがなかった頃はわざわざ友達の家に行ったり、ゲームセンターに行ったりしないと対戦ができなかったから、対戦システムというのは、1人でやることが前提として作られてた時代のゲームでは、かなりハードルが高かった。

 

しかし今は自宅にいながら世界中の人と対戦できる。

 

今の若い子は、ゲームでよく遊ぶ。ネットをやる。小学生でユーチューバーなんてのもザラだ。

 

お互いの家に行って遊ぶ事はあるが、ほとんどは家から出ないで友達と遊べる時代らしい。なんて羨ましいんだろう。僕は門限が5時だったから5時までしか遊べなかった。

 

でもいまや、お手軽な"インスタント感覚"で友達と遊べる。

 

それが当たり前になってる世代なんだ。

 

これは

 

何をするにも

 

一歩間違えば相手の尊厳を踏みにじる行為をやりかねない。

 

例えば対戦ゲームなら、負けると思えばイラつき、勝負がつく前に電源を落とす事だってできる。

 

顔が見えない、現実世界の人間とのやり取りなのにも関わらず、バーチャルなやり取り。仮想空間でのやり取りの向こう側に人がいることの希薄さを常に感じて行う娯楽の文化。

 

ゲームだけじゃなくコミュニケーションそのものが、簡単にグローバル化している。

 

よく考えてみろ。

 

会話、とあらば人に会いに行く事が前提としてた時代に生きた人間と

 

会話=LINE

 

の世代の人間が

 

何か同じことをするにも、同じ感覚でできるわけがないだろう。

 

音楽だけじゃないし、ゲームだけじゃない。

 

全部、全部、全部だ!!!

 

 

暖かみが欠けているんだ。

 

だから始めに言ったんだ。書くまでもない当たり前の事だと。生きてた時代が違う。同じ感覚を求める事はできない。

 

 

つまり。

本来ならごく人間的な内容は希薄化し

 

本来なら人間関係を感じ得なかった世界に、中途半端なコミュニケーションが、産まれた。

 

つまり全ての物事に人間的な要素が散りばめられた反面、その"全てがとても中途半端な位置で収束"しているわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

さて、察しのいい読書の皆ならばもう分かっただろう。

 

 

先のツイートの内容は、僕の視点から言えば

 

この一言に収束する

 

 

 

 

ゲーム感覚でやる音楽とは

「ハイスコアを叩き出す事」と同じ。

 

 

そしてそれを、

目の前に人間がいながら、

自分1人の世界に篭って行う。

だから人間の血が通わない。

 

自分のミスで落ち込み

他人のミスを指摘する

 

俺はすごいだろう?と観客を観る。

 

 

 

目的は音楽ではなく自分に課せられたノルマの達成

 

 

それを想起させる現環境に普段の生活レベルから慣れていたら、自分が気づかないうちに人間の希薄さの中で生きる事になる。

 

ハイスコアを出すために個人プレイの為のテクニックばかりが伸びるだろう

 

しかし人に届けるためにどうしたらいいかまで頭が回らない。知らないからだ。

 

 

 

 

 

そんなの

 

アンサンブルしなくて当然だ。

 

 

 

 

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ドラマー 薬剤師 リョウマサヒロ