今日は定例会のぐーたん会だった。
その時に話していたことを振り返り、久しぶりに自分の脳味噌の中を光が駆け巡る感覚が降りてきたのでそれをまとめている。
かの有名なアインシュタインは、時間は絶対的に等しく与えられた物ではないと説いている。
サイエンスライターであるサイモン・シンによれば、彼の特殊相対性理論をこう分かりやすく解いている。
『アインシュタインの特殊相対性理論から導かれるもっとも驚くべき結論のひとつは、時間という慣れ親しんだ概念は、根本的に間違っているということだ。時間は絶対的に規則正しく、いつでもどこでも誰にとっても同じだと考えられていた。これに対してアインシュタインは「ノー」と言った。時間は伸びたり縮んだりし、人それぞれにとって流れ方が異なり、あなたの時間と私の時間は違う』サイモン・シン
僕は何も、時間と距離の概念について小難しい物理学的な話をしたいわけではなく、あくまでもニュアンスの話をしたい。
僕には目標や、近づきたい理想がある。
それは少なくとも20代の頃には朧げに遠くに見えていた物で、10代の頃には何となく勝手に、自分はそうなると思っていた物で、10歳未満の子供の頃は想像もしていなかった物。
例えば、概念的な距離として、10年前に掲げた目標があるとして、そこまでの距離を漠然と頭の中で測ってみる。その目標地点までは当然、辿り着けると思っているわけなので、目標、あるいは理想として掲げている。
そして10年後、自分はまだ同じ位置にいるとしたら、果たして10年前と同じように目標として掲げ続けられるだろうか?
といった自問の答えについてをまとめているのだけれど
僕の中でこの"10年経った"というのは、大きな条件変化のように思える。
例えばものが一定の速度で動いていたとすれば
当然、時間が経てば元の場所から動いているし
ある程度動いていればそれなりに時間が経っている
時間と距離というのはそういうものだと思う。
そしてそれは何も生き物や機械だけでなく
掲げた目標というものも一定の速度で動いていると思う。
それは、自分の中での意識の話だけれど
10年前と10年後で漠然と同じ目標を掲げていたとしても、その内容や求める物事のクオリティは変わってきていると思う。
それは周りを見たり経験をしたりしながら、同じだと思っていた目標も、10年間を比較すればやはり少しずつ変わっているという事だ。
しかし自分自身はどうだろうか?
例えば毎日生きていく中で、やはり人は少しずつ目標に向かって歩くものだと思う。
どんなに遠くても、吉祥寺から新宿までは歩いていれば辿り着ける。
そのようにして道さえ知っていればどんなに時間がかかっても死にさえしなければ辿り着ける事を僕達は知っている。
それと同じように
目標を掲げたり、理想論をかかげていて
そこにたどり着く道筋さえ知っていれば、あとはやるだけで少しずつ進むはず。
でももし
道がわからなかったら
自分自身は10年間同じことを続けて同じ場所にいまだに経っていると感じたら。
どうだろうか。
10年前と同じ距離、10年後の自分はあの時と同じように、そこに行きたい!と言えるのだろうか。
吉祥寺と新宿の場所は変わらない。けれども生きている中で無意識下で、目標や理想は変わっていく。
もし、目標や理想ばかりが大きくなり、自分は同じ場所にいると感じてしまったら
相対的には、後退して見えるのではないだろうか。
そんなの、悲しすぎる。虚しくなる。何かを諦めてしまう人の心理はきっとこういう事なのだろうと想像した。
もし
目標や理想が当時掲げたままでなく、ある種無理だなと感じて、少し小さなものへと、無意識下で変わっていったとしたらどうだろう。
1日1日の変化は微々たるものでも
10年間という時間はとても大きい。日々の変化には気づけないけれど、10年を比較したら一目瞭然の変化な気がしてならない。
これが、いつしか妥協してしまった人の気持ちなのだろうと想像した。
物事には順序があり、その順序にこそ目を向ける人はとても多いし、僕もその1人だけれどと、それ以上に、その物事自体が変化している事にも目を向けなければならないと感じた。
僕は音楽を始めて18年になる。
どんぶり勘定で、10年
音楽を始めた頃、10年後には僕は何かのバンドでメジャーデビューしてると思っていた。
というか、メジャーデビューという言葉も知らなかったから
売れてるだろう
などと、どんぶり勘定した。
このように、視認した距離感が全く実際のものとは異なっていて、10年で辿り着けると思っていた距離が、18年経ってもたどり着けていないと知った時、かなり愕然とした。
やればやるほど、進むスピードを理解すればするほど、愕然とする。
距離の目算も違ってれば、やるスピードも誤ったのかもしれない
しかし、音楽を始めた18年前からすると
僕はずいぶんと前に進んだと思う。
逆に言えば、進んでしまっているから、今更振り出しには戻れない。戻るのにだってまた時間がかかる。
だったら前に進む以外に方法はない。
これが、僕のように諦めきれない人の気持ちなんだと想像した。
時間をいくらかけても、その距離必ず進むとは限らない。
それに、僕が感じた18年間は、かなり長かった。一昔前に、こんな様にドラムを叩ける様になったらいいな。そしたら売れるんだろうな。と思っていたスキルは身に付いた。とてもじゃないけど人様に聴かせられるような演奏じゃなかったあの頃、必死に想像していたドラムはいつの間にか叩ける様になっていた。
でもこんなに時間がかかるとは思ってなかった。
バンドの中で叩いてる僕の姿は、間違いなく目標に近付いている。昔はこんな風に叩けやしなかった。
けれどできる様になった結果、
こんなの大した事なかった。
きっと他にも大切な事があるんだと思う。
でも、18年間かければある程度辿り着ける事を知った。
もうちょっとスピードを上げる方法もたくさん知った。
だから、時間と距離だけでなく、加速度という概念がある。
ポジティブな内容として終わらせたいから、普段は言えない事を敢えて書くとしたら
この今のスピード感は、この先の10年をさらに加速させてくれるはず。