書いていこう。
1日1日が過ぎていく。過ごしていると言う感覚の方が強いけれど敢えてここは、「過ぎていく」と表記したい。
何故なら、1年後振り返った時にやっぱり早かったなと思ってしまうからだ。コレは歳のせいか?これが歳をとったと言う事なのか?
否!
ここは歳を重ねたと表記しよう。何故大人になってから、或いは歳を重ねるごとに一年が早く感じるかと考えてみると、コレには諸説あるけれど、一言で僕の中で感じる事を数式で表すならば
過ぎてった一年の長さ=1年/生きてきた年数
である。
32年間の中の1年を過ごした今
それが50歳になれば生きてきた人生の中のたった50分の1だ。
歳を重ねれば重ねるほど過去が目の前に積み上がっていく事になる。その目の前に立ちはだかった過去の、いったいどこに自分は立っているのか。
例えば
20代、体力もあり無茶もできて、体型もスマートで肌も若々しいと思う人がいたとしたら、きっと過去の頂点は20代になるだろう。
どんなに過去を積み上げても君臨するのは自分の20代の頃だ。そうして、積み上げれば積み上げるほど、その頃の自分に見下ろされる事になる。「俺が若かった頃はなぁ」から始まる退屈な武勇伝を語る人達が居るけれど
その20代の栄光に手を伸ばす様に、積み上がったその山にしがみついている、まさに「過去にしがみつく」とはこう言うイメージじゃなかろうか。
俺はそれがとても好きではない。からして、やはり何がなんでも過去の頂点は今でありたい。勘違いでも構わないが、自分の頂点くらいには立っていたい。そう思える自信を積み上げるため、1つでも良い、昔の自分よりもさらに上に行けてさえいれば良いはずだ。
自分との対話をしよう。人に語る内容は人の話ではなく自分の話がいい。やってきた事で言葉を紡いでいく事にどこまでも執着しよう。人から聞いた話は人の話だ、己から湧き上がる気持ちの由来は経験と期待で満たしていきたい。
努力をする事は誰しもできるけれど、挑戦する事、コレがなかなか難しい。俺が思うに、人に賞賛される事をやるというのは確かに気持ちは良いけれど、なんだか挑戦してる感じがあまりしない。
やる事に賞賛が少なければ少ないほど、挑戦している感じがする。できるわけねーよ、大丈夫かよ、いまさらそんな、まだやってんの?そんな声を聞けたら、心に火がつくチャンスだ。
逆に。
やりなよとか、やった方がいいよっていうのは当てにならない。むしろ、そういうならやってきたよって話を聞かせて欲しい。やっべ、楽しそ!って思ったらきっと数ヶ月しないうちにやってると思う。
超個人的には、そこまでやって何になんの?って内容にチャレンジしたい。なかなか難しいけど、ダメでもいい。それこそ直ぐに出来やしないから挑戦なんじゃないか。
攻めたら攻めただけ賞賛があるとするなら、そんなのは人が求めてることをやっただけなんじゃないかと疑心暗鬼になる。
それは多分努力なんだと思う。ちなみに今となっては努力する事には何も抵抗はない。頑張った結果、誰かが見てくれて褒められたり認められたりするのは気分が良いけど、
それを動機にはしていない。
なんだかあまり見向きもされてない時の方が伸びしろを感じる。結果を出すタームで、結果がついてくれさえすれば、道中はいくらでも泥まみれになろう。
とはいえ、コレがなかなか出来ないんだけどね。
今更だけど
タイトルに意味はない。
リョウマサヒロ