ドラッグ&ロックン・ロール

音楽活動報告、よく思考のまとめを行います

この世から犯罪がなくなる魔法を唱えられるとしたらこの世は平和になるのか

 

むかし、大学の特別授業だったか、企業研修だったか、社会心理学セミナーだったか

 

 

 

何故か頭に残ってるこんな問いかけについて議論した記憶があります。

 

確かこんな内容でした

 

『この世から犯罪がなくなる魔法を唱えたらこの世の中は平和になるのか』

 

これを考える上で設定は3つ

 

1.この魔法は何度でも唱えられる事

 

2.この他に魔法は存在しない事

 

3.平和の定義を犯罪がない事とする事

 

 

※出題者への質問は一切受け付けず、回答者は「なる」もしくは「ならない」を先に答えその後理由を述べよ。

 

 

 

本来なら、平和の形は様々で、犯罪がなくなったら世の中が平和というのは、本質と外れていると思います。

 

 

しかしあくまでもこの設定だとして、という事だったと思います。

 

これはグループワークで行い、各班が問いを考え他の班がそれに回答するという変わったスタイルでした。

 

そんな中でとある班が出した議題。

 

様々な回答が出ました。

 

僕らの班の回答は今回は気が向いたら書くとして、

 

 

とある他の班から出たのユニークな回答を書こうと思います。この回答が非常に頭に残る内容で、当時の僕には衝撃的でした。なるほどその考え方は面白いと思った内容です。

 

 

 

 

 

 

その班はこう答えました。

 

『回答は「ならない」。

 

まず私たちは、この設問に対して、犯罪はなくしたいけど、なくならないだろうという事を想定した。

 

そしてそれを証明する為、初めに「平和になる」と仮説を立てて考えた。

 

するといくつかの矛盾点が生まれてきた。

 

まず設定3:世の中から犯罪がなくなるという事が平和 とするならば、魔法を唱えた段階で平和は達成されるかのように思える。

 

しかし、設定1:魔法は何度でも唱えられる とされている事を考えると、訪れた平和の中からまた新たに犯罪が生まれる事を示唆している。

 

そして犯罪が一度消えたら2度と出てこないという設定がない点が重要である。

 

つまり、平和になった後に犯罪が生まれ、また唱えては生まれ、幾度となく繰り返す。

 

そしてその繰り返しの歴史を俯瞰してみると犯罪は全く無くなっていない。平和な瞬間があるだけで、議題となる世の中が平和になっているとは到底言い難い。

 

そしてその結果、犯罪が消えてはまた生まれる状態が当たり前となり、それ自体が普遍的な事実として平和な世の中が達成されない事を証明する結果となる。

 

そして設定2:この他に魔法は存在しないという事 これが何より救いようがない。解決策がない事を示唆している。

 

つまり、平和になるという仮説を立てて、その仮説が否定されたので、ならないという結論をだしました。』

 

確かこんな感じです。

 

 

これを聞いた時に、驚いたのを覚えています。

 

設問そのものへの取り組み方が、この班は唯一、『帰無仮説の棄却による証明』という方法で取り組んでいました。

 

ここでちょっと説明を挟むと、これは主に統計学で使われる手法なのだけれど

 

自分達が証明したい設定をまず立てる

 

例えば今回で言えば、「平和にはならないだろう」という自分達の意見を立てるという事になります。

 

そしてそれを証明するために、

 

自分にとって都合の悪い仮説を立て、その仮説が否定されれば、自分たちの都合の良い仮説が証明できるという事ですね。

 

この都合の悪い仮説の事を、帰無仮説

 

それを否定する事を、棄却

 

と言います。

 

よく統計学で例えに上がるのが

 

『人間と犬が違う生き物である事を証明しなさい』

 

という例題です。

 

この場合は、証明したいのは人間と犬は違う生き物であるという事です。

 

その証明の為に、人間と犬は同じ生き物であると仮説を立てて、

 

そこに対する矛盾点を徹底的に挙げて

 

つまり人間と犬を同じというのは無理があるので、違う生き物ですとする方法です。

 

この班は、答えの無いこの問題に対して

 

 

かりにこの設問の答えがこうだと仮定しよう。

 

 

そして「この設問自体への反駁」という形で切り込んでいます。

 

 

 

こういった方法は統計学の様に数字があり、答えが明確に見えてくる問題や

 

 

人間と犬のような対象物の比較問題だけでなく

 

 

答えがない1つの問題に自分なりの考え方をまとめるのにも有効な方法だったりもすると思います。

 

 

または、同じ手法を使って

 

 

人間と犬は実は同じ生き物と考えることもできるのでは?

 

というようなちょっと屁理屈じみた小話をする事もできたりします。

 

 

 

閑話休題

 

 

 

僕らの班含めてほとんどの班が、「なるのかならないのか不明」のまま議論を進めていく中で、この班だけが設定を考察した上であえて「平和にならない事の証明」という問題として置き換えて考えていました。

 

ちなみに、この方法のメリットは、平和にならない事の証明をするために、あえて行った「平和になるという仮説」に、矛盾がなかった場合には、フラットに、ならないと思ったけどなった。という回答にたどり着けるので、何かを分析する時には役立つ手法だと思います。

 

 

 

…と、思っていたんですが。

 

 

 

 

答えがどちらかわからない時、僕もやりがちですが、または目的が定まってない時、議論が進まず不十分なまま結論が甘くなったり、無意識で自分の都合の良い設定に流されやすく、それを証明する為に自分の都合の良い方向へばっかり目が向いてしまい正しく考察できなくなってしまう事がしばしば。

 

 

 

この出題はファシリテーターの人が再度取り上げて、

 

今から今度は自分達が出した結論を、徹底的に自分達で否定して、逆の結論を出してみて下さい。

 

そしてそこから学んだ事を付け加えて発表して下さい。という事になりました。

 

 

 

僕がユニークだと思った班は次は、先ほど行った自分達の素晴らしい論理的思考から出てきた回答と根拠を自ら否定して、「なる」としなければならない。一体どう答えるのかがとても楽しみでした。

 

 

そして案の定、僕に大切な事を気付かせてくれました。

 

結果から言うと、さっきの話は理論の構築の方法の話。次の話は、その結果出てきた結果の読み取り方にもまた人はバイアス(偏見)が入るから注意が必要ですと言う事を気付けた事。

 

 

 

 

 

さて、ほどなくしてその班の2回目の回答発表の番がやってきました。

 

 

 

『先ほどの根拠には矛盾が存在する。私たちは大きな見落としをしていた。

 

まず第一に、1回目の回答の中で「繰り返す歴史の中で普遍的に犯罪がなくならないという事を証明している」と説いたが、ここにまず矛盾が生じる。

 

まず1回目の時この問題に取り組むにあたり、大前提として犯罪は無くすべきである、あるいは無くしたい物であるという立場から無意識で考えた上で、なくならないという前提に立って考えた。

 

しかし今、私達は先ほどの理論を否定しなければいけない。

 

その為に次に考えたのは

 

「ではもし、犯罪は無くすべきではないという前提だとしたらどうなるか。」という事である。

 

そして同じ様に、今度は犯罪はなくすべきでない犯罪は犯すべきであるという立場から、1回目と同様に

 

平和にならない事を証明するため「魔法により犯罪がなくなり平和になる」という仮説立ててそれを棄却する事にした。

 

この場合、無くしたい人からしたら何度も犯罪が起こり、消して無くならないと感じる様に、無くしたくない人からしたら何度も無くなってしまうことになる。そう感じるとしたら、長い歴史の中で何度も犯罪がなくなることになり、その結果普遍的に犯罪は何度でも無くせるという証明が成り立ってしまう。そうなると、「犯罪はなくなり平和になる」という仮説が証明されてしまう。さっきと同じ事をしてるのに、前提をひっくり返したら見え方や結果も変わってしまった。何故こんな事になったのかまだ私達はわかってません。。。。。。驚いてます。

 

犯罪がなくなった状態を平和とするなら、何度も平和になっていることもまた証明しているとも言える事になります。よって犯罪なくなり、平和に「なる」という回答に。さっきの私たちの理論自体がおかしいのでは?と思いました。

 

私たちは、このディスカッションで、立場や前提が変われば物事が180度変わって見える事を学びました。

 

これは世の中のあらゆる事に言えるのではないかと思います。私たちはもちろん犯罪は無くすべきと考えています。

 

しかしもし本当にそれを考えるならば、逆の立場の、そう犯罪はなくすべきではない、あるいは起こしてしまう人の立場に立って考える必要があると学び、またそれもあらゆる事象に言えた事なのではないかと、思いました。』

 

 

 

ザックリになるけどこんな感じの回答だった。

 

 

 

僕が、批判的吟味、クリティカルキンキングというのを大切にする事になったキッカケとなった思い出、経験の話でした。

 

 

1回目の回答は僕には完璧だと感じました。しかし、その理論も、人は何かを考えるなかで、無意識に自分の都合の良い前提を置いて考えてしまう。しかしそれをひっくり返したら、真逆の答えに。

 

 

余談として

 

当時の僕の班の回答を紹介します。

 

1回目

『平和には「なる」。何故なら魔法を使えば犯罪はなくなるという第4の設定が設問中には存在する時点で平和は達成される。あとは実際にその平和が維持される事を考えなければならないが、犯罪がない事が平和であるという設定3によれば、常にその魔法を唱えていればそれを解決できる。この問題では魔法を使える人の数を言及されていない。なのであれば世界中のどこかで24時間365日その魔法を唱えていれば良い。設定1によってそれが可能である根拠があり、その魔法を妨害する魔法が存在しない事を設定2が指し示している。』

 

2回目

『先ほどの理論で行くと、犯罪をなくせる魔法を常にかけ続ける事を行えば可能と説いたが、ここで一つ考えなければならないのは、実際にそれが本当に可能なのかという点である。

 

魔法により犯罪自体は消せたとしても、犯罪を起こしたいという人が消えるわけではない。

 

そうした場合、消えた瞬間からありとあらゆる妨害行為が可能である。

 

一つには、これは犯罪を起こせなくする魔法でないという点。つまり、無くせるという事と、起こらないという事は同義ではい。設定2:により他の魔法は存在しないが、それ以外にはいくらでも妨害が可能という事を見落としている。

 

二つ目に、魔法をかけられる人の命を殺めてしまう等、魔法がかけられない状態を作る事がいくらでも可能と言う点。

 

三つ目に、仮に犯罪の定義が法によって定められるとした場合、この魔法の使用を法で罰すると取り決めた場合は、この魔法自体が犯罪となってしまい効力を失うと言う点。

 

犯罪を無くすという事を考える場合、こう言った点を踏まえてさらに設定を深める事ができる。

 

今回私たちが学んだことは、どんな設定や理論にも、必ず穴があるという事。その前提を覆す作業よってより深く目的を達成する為の案を考える事ができる事を学びました。」

 

 

 

リョウマサヒロ

 

 

 

【おまけ】

 

 

 

人間と犬は違う生き物か?

 

 

いやいやちょっと待て

 

 

例えばそうだとしよう

 

 

しかし

 

そうだとするにはおかしいくらいに

 

 

人間と犬には共通点がたくさんある

 

 

例えば、人間も犬も、卵ではなく赤ちゃんが生まれてくる

 

 

人間の食べ物を犬も食べる事ができる

 

ドッグフードは美味しくない?

 

僕が美味しいと思う辛い物を食べれない人だっているぞ

 

納豆を食べる日本の文化を、あり得ないと考える肌色の違う国の人もいる

 

 

 

その人達は違う生き物なのだろうか。

 

 

犬はしゃべらない?

 

 

本当にそうだろうか

 

僕はスペイン語はわからない

 

 

ドイツ語もわからない

 

アメリカ人も日本語をしらない

 

 

でも知ろうとする人がいて

 

 

知る人がいる

 

 

犬の言葉がわからないから意思疎通はできない?

 

 

君は外国の人と意思疎通したことは無いのか

 

 

外国の人の言語がわからなくても、楽しいねとか、悲しいねというのは、読み取れないだろうか

 

おや?読み取れる?

 

 

待てよ、犬も感情表現豊かではないだろうか

 

 

わからないのは、知ろうとしないからではないか

 

 

違う生き物であるというなら

 

 

外国の人は違う生き物ということだろうか

 

 

同じ人間なのに?

 

 

 

もし違う生き物ならば、相容れないもしくは分かりあうことは叶わないはずだ

 

しかし

 

人間と犬は心を交わすこともできる

 

どうやらそこに言語表現や見た目の違いは関係なさそうだ

 

 

 

 

そして共存することもできる

 

 

現に犬を家族として捉えて愛情たっぷり心血注いで育てる人を見た事はないだろうか

 

それは命を育む事だ

 

人の子を育てるのと本質的な違いはなんだ

 

人は死んではダメで犬は死んでいいのか

 

そんなはずはない

 

 

はたまた種族というのが違うだけで違う生き物と割切れるのだろうか?

 

 

子供ができない。

 

 

ヤギとヒツジは別の生き物のように思えるが

 

ヤギとヒツジの間に生まれたギープという生き物が実際に存在する。

 

 

確かに犬と人の間では今は難しいとされてるけど

 

ヤギとヒツジのように属が異なる交配は不可能とそれまではされてきた。

 

何かの拍子に人と犬の間に子供ができないとも言い切れないのでは?

 

 

 

あれれ?

 

 

人間と犬が違う生き物というには、あまりに共通点が多く、一概にそうは言えないのではないか?

 

 

 

もしかしたら、

 

 

人間も犬も、同じ生き物では?