バンドは、音楽をやる事の中でも特に享楽と言われる、周囲を巻き込む事そのもの
※享楽-快楽にふけって、十分に楽しむこと。
日本あるいは世界の歴史、宗教、進化生物学、政治経済
こういう事と一見無関係に見える、あるいは繋げるには幾つかのバイパスが必要に見えるバンド活動も、ここ最近は俺にはむしろこういう事と直結している内容にすら思えていて
その過程で、バンドって一体自分にとってどんな存在なのか、最近自分の中でそこをなおざりにしてはいられなくなっている。
切っても切り離せないのは、一旦簡潔にいえば、生活。そして、金。それと、関わる人間と、世の中の違和感。
それはどれにおいてもどんなエンタメもビジネスもプロダクトも同じであるとすれば、やはりバンドも同じく切り離せないはず。
世論的、あるいは、世の中の風潮、世渡り論的には、誰かの都合に悪いことや尖ったこと、あるいは同調圧力にハマれない発言は、口をつぐんだ方が良いのは非常にわかる所もあり。
しかし、それは世渡り論の話でしかない事は明確で、その裏では人と人の個と個がバチバチにぶつかり合っては壊れて、再構築されてを繰り返して残った物が世に出ていました。
あくまで音楽をやっている身としては、むしろ、そう言った世渡り論的なものに抵抗あるいは反抗する精神に見て見ぬふりするのは違和感があります。
ここ最近は、激務&激務な生活からやっと距離を置けるようになって数ヶ月過ごしていて
今までは時間とかタスクに追われて、気になるけど気にしてる余裕がなく、ほったらかし、あるいは後で、と置いておいた物事をやってみたり見聞きしたりして楽しんでいます。
元々は何かしらに反骨精神や違和感を抱いて、その気持ちを持ちながら音楽をやってきた自分にとっては、じゃあ自分は一体何に憤ってるのか、何と戦ってたのか、何に懐疑的であったのかというのもまた非常に重要な問題だと思う一方で、そういう事に対しての一切をとりあえず置いておいて、目の前にあるやれる事をやるしかなかったここ数年でした。
置き去りにした事を少しずつ手に取って見て、味わってます。
『世の中何かがおかしい』
そう言った世論が全くなかったとしたらもしかしたら要らないかもしれないけれど
やはりそんな事は無さそうですね
娯楽である以上、また自分の中から作るものである以上、もしそう言った生きづらさや憤りについて同じように考えてみるのは非常に有用だなと思います。
僕にとってバンドをやる事というのは、生きるために必要な事でもあり、享楽そのもの。
わざわざ、メンバーが必要
わざわざ、スケジュールを合わせ
わざわざ、スタジオに出向き
わざわざ、違う人間同士でぶつかり合い
わざわざ、…………
と、
便利になった今となっては、の「わざわざ」をつみあげてやっと
作り上げる物があるなと。
この、自分達あるいは自分の為にこのたくさんの「わざわざ」を積み重ねた結果味わえる旨味に浸る事が、俺のいう享楽そのものなのですが、伝わりますかね。
そこで比較対象というか、便利なタイプの娯楽というのを一応、一通りやってみました。
話題性のある本や、YouTubeの動画、最近流行ってるらしい音楽とか、ゲームやアニメ
そういえば映画も久しぶりに観たな。
色々と気づく事がありました。
音楽と、仕事やその周辺知識くらいしかあまりまともに触れてないと、本当にとんでもないくらいインプットが足らなくなる物なんだなと思った次第です。
経済論的に、物を売るという事も問題定義はあると思うけれども
もっと手前で、世の中のおかしさや、生きづらさ、ストレスにまつわる物がエンタメとしてたくさん作られていたのに驚きましたね。
そういった負のエネルギーが膨れ上がれば上がるほど
それを消化するエンタメに人が集まってる様にさえ思います。
そして
それを昇華するために必要なエネルギーはより多くなると思っていてます。
一方で、手軽に個人が参加できるタイプのエンタメも、自分より下の世代の人達には流行ってるんだなあと思います。
色々話は膨らみましたが、いったん戻して
内側で言えばこのようにして、俺は自分の為に音楽をやっているわけですが
そこから一歩出て考えて見た場合にね
それに共感してくれる人達の事を考えると
あるいは、何か自分が新しく知ったエンタメに集まっている人達の話してる事を観察すると
従来の、少なくとも数年前までの感覚とはもっと異常ズレた位置にある、なんだろうな、不安や不満を抱えていて、それらを消化してくれそうな物に人が集まっている様に見えました。
俺自身も御多分に洩れず何かに違和感を感じ続けているのでそれは非常に理解できます。
その正体を掴むことはもとより
ただ、その存在の大きさを知る必要があったわけです。
『日本経済の行く末が悪い』出来ればそんな事はぶっちゃけ専門家やお上の人たちに責任押し付けてこっちは知らんぷりしてたい内容でもあります
しかし、世の中は少しずつ混乱して
大規模な社会だけでなく、参加するコミュニティ内にも見えない不和がある様に思います。
さらには、時間やお金をエンタメに割く事が難しいメンタリティというのがあることも、仕事を通じて痛感しました。
そこにさらにお金という経済的な難しさも上乗せしてくるなら
重たい足腰を突き動かすほどのエネルギーや興味をこっちが提示できた方が良い。
月並みですが、ブルージャイアントを映画館に観にいったんですね。
それは、とある友人が、「映画館の音響で見る事に意味があると言わんばかりのツイート」
をしていたからと
また別の友人が
「観て欲しい。」
とダイレクトに連絡をくれたから。
普段、映画館に映画を見にいくのが面倒くさいと感じるタイプの僕も、こればかりは観に行った方が良さそうだなと思って行きました。
つまり、人に突き動かされたわけです。
何もするにもまず面倒くさいが勝る時、ちょっとやそっとでは、フラットに作品に共感できるかどうか、好きか嫌いか、かっこいいか否かの判断基準にひっかからない世の中になっているのではないかと思うわけです。
と、同時に
本当にそうか?と疑う自分もいるわけです
音楽ファンの人の声を聞く機会があった時なんかは、自分が思っている以上にシビアにライブハウスを捉えていたりもするし
でも一方で、やっぱり好きで好きでたまらないみたいな元気をもらえる声も聞けるわけです。
人の為や、お客さんの為というものの本質は良いものを作るという事と似てることの様に感じている一方で、
その一部分を切り取って上辺というか、見下げた態度のものも実際には世の中にたくさんあるわけで、俺はそっちはあまり好きではないから、出来ればそうならないようにとアンテナを張ろうとした時
今世の中で次々と生まれるエンタメに触れる時間があまりに少な過ぎたなと痛感しています。
必要なのは自分を突き動かす事なのだけど、それを他者に共有して巻き込む必要があるのがエンタメなのだとしたら
巻き込まれる人の不便さや感じてる違和感の本質を掴んで、それに対して音楽で中和できるほどの、本音を言えば吹っ飛ばしていけるほどの作品やライブを、出したいと思いました。
さて、少し前までは本当に漠然と良いライブをすれば良いと思っていたらやってきたコロナ禍
そのコロナ禍を経て立ち止まる事はなかった少し前まで。
そして、マスクは個人の自由が先日解禁?されたわけですが、仮にこれがコロナ禍の次のタームだとしたら
そのタームでなんと立ち止まるタームに入った俺(人生的にね)
この時間に一体何が出来るかなーとゆっくり考える事ができるくらいには時間に余裕が出来ました。
いつまでこんな時間を貰えるかはまだ分からないけど
こんな時間の過ごし方、めちゃくちゃ久しぶりで時間の使い方に困る。
というか自分がエンタメを消費する側に立った時に興味が失せる感覚があります
これは一体なんなのか。本来なら時間があれば色々できるのに、ついつい手軽な物に手が伸びてしまいます。
(娯楽と享楽を似て非なる物として)
世の中にはあらゆるテクノロジーがあって、欲望もあり、便利な物があり
娯楽は次から次へと生まれてきて
非常に魅力的なコンテンツがたくさんありますね。
あまり人に合わない時間が久しぶりに続いているわけですが、そうなって見てそれに合わせて色々と面白そうなシステム(テレビでネット見れるやつ)導入したりしてみました。
活用してみると非常に便利の連続で、いっときは勉強するのも遊ぶのも全てネットで代替できちゃった。
かなり便器ではあったのだけど
たった唯一の問題は
『孤独に打ち勝ってる気になれる事』だと思う事があります。今のものはゲームひとつとっても簡単に人と繋がれるんですね。オンラインゲームと言うものを初めてやってみて、びっくりしました。
一方で、
その手軽に消費できるエンタメの内側では、かなり手が混んでたり、手間暇がかけられていたり、マンパワーがあったり、コンテンツに相当な魅力があったりと、片手間で作る事ができる物では無い気がしています。
言い換える一つの手段としては、自分が手軽に手を出せる娯楽は、作り手にとっては自分らが思った以上にガチガチのビジネスなのかもしれないという事。クオリティが異常に高いです。
そこまでやって、人に手軽に消費してもらえる娯楽なんだなと、あえて飲み込む事ができれば
手軽な娯楽ですらこんなにクオリティが高いのか!と言うのが正直なところです。
本当はすぐそこまで迫るかもしれない孤独や違和感はこういったもので隠す事ができます。
少なくとも多数の人が感じているのだとすれば、それらをどのくらいのエネルギーがあれば、自分達の音楽を対抗手段として選んでもらえるかを考える事ができる気がする。
エンタメでなくても、良いのだけど
今自分が行う事全てが消費ベースになってみて思うのは
世の中の物はこんなに手間暇かかってるもので溢れてるのかと思った事です。
じゃあ自分が何かを作ろう、提供しようと考えてみると
俺の中では何かを諦めたり曲げたりして対応すべきではなくて、むしろ
突き詰める、あるいは突き抜ける方向に行くしか活路が見出せなかった。
果たしてあたってるかどうか
皆さんはどう思いますか。
実際、手軽なものの中には、クオリティは非常に高いけど、似たり寄ったりのものは凄く多いです。
ゲームにしても何にしても、ベースとなる物はさほど変わりません。
例えば僕が好きなRPGは、オンラインだとすると
だいたいがオープンワールドゲーム。ガチャを引いて当たりが出れば無課金、うまくいかなければ課金してゲームの難易度についていく手法。
ゲームそのものは基本無料ダウンロード。
始めるのはとても手軽。
クオリティって一体なんなんでしょうか。
大切だなと思ったのは
仲間をたくさん作っていく事。
1人で生み出すエネルギーより専門性のある人がより多く関わる物の方が、圧倒的量のエネルギーが生まれる。
これは今回のレコーディングを通しても痛感した事。
そして、仕事において振り返ると反省点として見えてくる事です。
何かを自分だけでやろうとすると
色々やらなければならず、タスクを処理する事に目的がズレていってしまう。
でも任せられる人と関わると
本当にやるべき事そこに注力でき、与えられた役割のクオリティを上げる事にリソースを割けます。
1人ではできない
でも2人なら、あるいは3人なら出来るかもしれない
この大前提だったものが形を変えて、今になって大ヒントをくれたと今更ながら思うわけです。
娯楽を楽しむ事と言うと漠然としてるけど、それは生きる気力、という事と隣り合わせな気がしてなりません。
これらのことは一見して言語化は難しいけれども、そこを諦めず言語化にとりくんでみると、
そこには色々な価値観や学問や哲学が存在している様です。
その中で自分が思う正解という物があり、相対的に間違いと思う物がある。
それらを出来る限り多く、正解に近い何かで埋め尽くす事が出来るのがたまたま自分にとってはバンドだったんだと
今更ながら思います。
リョウマサヒロ