令和五年二月一日


新しい課題に取り組み始めた。
いや、課題というよりは、成長できる気がするしなんか楽しそうだという遊びにも近い。
分かっているところとしては、僕が思っている「重力」というのは、本質とは程遠かったということ。そしてもしかして実はもっと奥深く凄いことが詰まってるらしい、という事。
なんかそういうのを見えてるっぽいからそれは俺も見たいというとても好奇心をくすぐられる内容は、いつだって何かしら自分を何処かに導いてくれてとても楽しい。
思ったところに着地するとは限らない。けど結局、やる前と後では何かしら成長してる。今のところ。
同時に、成長きてる気になって実は道半ばで分かった気になるのも怖い。
そこは慎重に行きたい。
実は手首をしばらく前に自ら壊した。
ただ、これはアクシデントではなく、まあやっぱりそうなるよな。という感覚付きなので今は全く問題ない。
「自ら」と言うのは、おそらくこれはこのまま行くとあまり良くないんだよな、でも負荷を掛けてでもこの音好きなんだよな、どこまで行けるかな。
と、試しちゃったのだ。すまん俺の手首。
結果としては、完全にぶっ壊れるのでなく、「壊れそう」止まりで済んだ。
この叩き方でどこまでも行けるだろうか?いや無理な気がする、でもあるいは壊さないのならばこれで突き進みたい。どの程度やると壊れるのか?という疑問があって壊れない事を半ば願いつつやっていた。まあダメでした。
こう言う自分等を実験台にしがちなのはもう一つの職種ではそれなりにある話だけど、そう言う問題でもない気もする。こういうので取り返しにならない事になるケースもあるのは知っているので、ほどほどにしようと思う。今回はたまたま収穫が多かっただけで済んだだけだろう。絶対に人にはオススメ出来ない。何故なら、一応自分では本当にやばいパターンの痛みとそうでない痛みの区別が、ある程度出来るところまで来てのこのマッドな実験だからだ。
しかし案の定、オーバーワークすればどんなものだって、身体はダメージを受けるからオーバーワークには気をつけた方が良い。あるいは、メンテナンスする方法が別にあれば良いと言う事にたどり着いた。もちろん軽いダメージのうちにだ。壊してからでは案の定遅い。
目的はそれで出る音がカッコ良いからそれをさらにブラッシュアップしたいという、シンプルな気持ち。しかしそれには限界はあった。ただし塩梅で使い分ければ個性になるとも思った。
けど流石にそれ以上は無理っすー!という体の悲鳴。
結果としては、ある程度壊れる限界まで行くところまで行って、従来の方法に固執した場合はこうなるよ、の限界値を知れたという収穫があったので
現在新しい方法を取り組んでいる。
そうだ、その中でね
色々なスティックを試す機会もあり、これじゃなきゃダメなんだという拘りを捨ててみた結果
この音はこれだと出しやすい、こう扱いやすい。でもこういうのに注意。という副産物も回収した。
そんな練習を今日はした。
動画を見返すのが非常に楽しい。
叩いてる時の感覚と、実際を比べて、その擦り合わせは試してる事がある時ほど見てて楽しいものだ。
余談だけど
そんな事を思ってスタジオに入った後、この日は2人のドラマーとお会いした。
ここから先は本当に余談なのだけど
ある人は、「相談」という目的だった。
その人は俺と話したいという事で呼んでくれた。
会ってみて思った。「確かに、それならば俺にもまだ話せる事がある。」と思った内容の相談だった。
もう一つの仕事を頑張っていて良かったなと思った瞬間だった。
ただ、内容が相談なだけにあまりこれについては触れないでおこう。
とにかく聞けて、話せて良かったと思ってる事だけは書いておこう。
もう1人は、特に示し合わせたわけではないけれど、僕から誘った人。
他愛無い話ではなく、
大体いつも、俺にとって非常に興味深い話をできる人で、どちらかというと先ほどみたいに「俺にも話せることがある」という内容ではなくて、逆に「俺はこう思うのだけど果たしてこれってどうなのだろう?」という自分にとっては何も結論が出てないし確定すらしていない内容を伝えて、それに対して会話がどんどん盛り上がって成り立っていく感覚。
こういう事を話せるのって、意外とそんなに多くないらしい。
確かにそうだ。
俺としては十分ありがたいくらいいつもそういう経験をしてるのだけど、一方で、皆はそういう経験を出来てないのかと言えば、そんな事ないんじゃないかとも思う。というか、皆の事は分からない。たぶん褒められてるんだけど、それを素直に受け取らずにちょっと捻くれた有り難みの表現をする所がある。まあ治す気ないけど、分かってくれてると思うから治す気がないだけかも。
ただ、やっぱりそんな事言われたらまた話したくなっちゃう。嬉しいじゃないか。だって、普段はそんな事を考えたとて他人に話してもあんまり意味が2人の間に生まれない話の内容だったりするからだ。
話の内容を変われば、より多くの人と話す事ができる。ただ、この手の話をするにはやはりあの人というのが、俺にもあるらしい。
そういえば、左手について話すのを忘れた。これは俺にとっては由々しき事態なのだ。
そう、それについて話したい事があったんだった。ぶっちゃけ楽しくて完全に忘れてた。
以前彼には、昔出していたであろう音も、今の音とまた一味違ってすごく良かったよという話をしたのだ。
別に今がダメというわけでなく、僕もそうなのだけど、昔やってた内容から進化しようとすると、前やってた内容を再現できなくなったりする事があるけど、それってとても勿体ないなと感じる事が多いのだ。もしかしてそうなのかな?と思って話したのがキッカケだ。
(そうでなかったとしても、ドラムが大好きな彼は話を真剣に聴いてくれたと思うけど)
個人的に思うことはとしては
できる限り、何故そうなっててその動きで、その結果この音になるのかと言うのは、少なくとも自分の演奏においては後で立ち帰る時にも、それを表現として精度を上げて繰り出す時にも、必要な過程だと思う。そこは探究心を満たされる所でもあって、なお楽しい。
音楽である以上、別にやり方に正解はない。やり方から導かれる結果が違うというだけの話なのだとしたら、再現できるのであれば色々な表現が再現できた方がいいと思う。せっかく進化しようとするのなら、進化後と進化前どちらも身につけちゃえたら最高だ。一個進化したら進化前に覚えてた技は忘れてしまって思い出せないなんて仕様はポケモンだけで十分だ。
俺は少なくとも、進化前の方法が出来なくなるのは非常に勿体無いと思う経験がたくさんあった。だからそれを解消するために昔に立ち帰るという事も良くやっている。立ち返るためには少なくとも自分の中では体系化されてる必要がある。
そんな事を以前確か伝えた上で、(伝え忘れてたらごめんなさい)何か役に立てるなら僕もあれが何故良かったのか、何故あの音になっていたのかのヒントになりたい。という気持ちがあったのだ。本当にかなり好きな音だったのだ。そういうのをいらないと思ってる人ならこういう話はしないのだけど、そうではなかったから嬉しい。
彼もそれを快く聞いてくれていると思う。
それを話しそびれたのが非常に、悔しい。
鮮度が落ちるときっと伝える内容が変わってしまう。
でもまあ、次は次で面白いだろう。
次あったら必ずそれについて話したいと思う。
本当はこの辺でやめないと長すぎて逆に表現としてもくどいし、ただの日記にしては読み返すのが面倒くささすぎるからもはや意味がなくなってるんだけど、もういいや。
という事でもう少し書いちゃおう。
そういえば、話した場所はどちらも喫茶店だった。
後半の方は、ジャズ喫茶だった。
そのジャズ喫茶は割と行く方で、僕にしてはリピート率が高い。音が好きな場所だ。この場に限らず音楽が流れる場所で人と話す時、時折話すのに対してBGMが大きすぎると感じる事があるけれど、何故かそこで流れるジャズは、うるさいと感じるラインはギリギリ超えず、音がしっかり耳に入ってくるなあと感じる所の絶妙なバランス感覚があるお店だ。
たぶん、
音が立体的に聞けるアナログのレコードのいい所だ。再生機器の音量を変えずとも、しっかりとした音量差が、ただ音量の差だけではなくて、例えば音が飛んでくるとか、前に居るとか、下にいるとか、後ろに下がったとか、そういう言葉で表現したくなるような、まるで包まれてるような感覚で体験できるのが凄くいい。
ちなみに、話に夢中になるとBGMが本当に意識から消えて、あたかも聴こえてない錯覚に陥る。人間の耳と脳というのは、精巧に作られてるのか、そうでないのか、毎回不思議な感覚になる。
「結構な音量で流れてるな」と、ふと相手がトイレに行った時に気付いた時なんかは、本当に話が面白かったんだなあとか、嬉しい気持ちになる。
次回会う時は、どんな話ができるのだろうか。