ドラッグ&ロックン・ロール

音楽活動報告、よく思考のまとめを行います

いじめ

今朝、かなり胸糞の良くない漫画を見ました。最初に一言添えておくと、読後感は胸糞が悪かったけど、僕はとても意味の大きな漫画だなとは思いました。

 

自分の子供がいじめをしてしまっていたという内容の漫画の一部がネットに載っていました。

 

色々な事が世間では語られていて、またリプライにも様々な内容のコメントが寄せられていました。

 

いじめについての経験を語られる時、僕の感覚では、「されていた経験」は多く語られる様になったてきたなと思います。一方で、「していた経験」が語られる事が少ないなとも思います。

 

 

「いじめは加害者意識を持ちにくい」とか、「人はされて嫌だったことの方が覚えているもんだ」とか「していた事を自分から語るのはとても勇気がいるから」などと様々な理由が語られていて、そのどれもそうだろうなと思う反面、僕はその奥の根っこがいつも少し気になります。

 

 

これは良い機会だなと思うのと、この今朝の胸糞の悪さを消化する為に書いています。

 

 

先に僕の結論を書くと

 

『せめて大人になった今は、多少の事は許せる様になりたい。俺も許してもらってきてるはずだから。』

 

『度を超えた事は第三者を入れて社会的に解決(お金)も必要なくだりなのでは』

 

『特別な事だと認識して関わらない関わってはいけない事しないで、やり兼ねないやられかねないよくある話として受け止める。決してファンタジーにしない事。』

 

 

こんな感じです。

 

 

 

 

 

この話の漫画を見て初めに感じたのは、僕の場合は「嫌な事をされた経験全般を思い出してイライラ」する感覚でした。

 

幸(こう)と言えば良いのか、不幸な事なのかわかりませんが、僕の心に引っかかるトゲとして残っているこの経験は、その多くが大学生以降の経験です。

 

では子供の頃にいじめられた経験が無いのかといえば、そんな事はなく、むしろめちゃくちゃいじめられてたんだと思います。

 

と言うか、「いじめだったんだと思います。」が正解かも。

 

 

そして、という事は俺も「いじめてた側だったかもしれない。」という話でもあります。

 

 

僕の場合、今で言うところの、「いじめ」で言えば、いじめられていた事は何回もある一方で、いじめていた事もあると思っています。

 

 

 

そのどちらも、当時はおそらく、いじめだとは思っていなかったと思います。

 

 

「嫌な事をされた」「ケンカ」「ムカつく」「うざったい」そう言う感覚を行動で表現していた多くの子供達の中の1人だったと思います。

 

 

 

僕の中でとても強く思うのは、ここです。

 

 

僕はその人がある時点での被害者なのか、あるいは加害者なのかと言う事よりも、

 

 

生きていく中で誰でもやる側、やられる側になり、それを蓋して生きていく事に違和感を感じる

 

 

なんか包み隠されてる様な気がしてならない。

 

こう言う話になるとよく、いじめの定義に付いて語られる。それは良い事だけど

 

 

する側もされる側もその定義に則って行われるものではなく、本当にふとした瞬間に心を傷つけられ、あるいは傷つけてしまうものだと思っています。

 

 

その対処は大人であればある程度できるけど、大人が見守らなければならない子供達の関係においては対処が難しい、これがいじめなのではないか。

 

 

 

僕が子供の頃は、ギリギリ「いじめ」と言う言葉を口に出すのがすこーーーし、浸透してきた時代と言うか、いや、と言うよりもその多くがまだ「ケンカ」で全て片付けられていた頃。それがちょうど幼稚園とか小学校でした。ちょうど1990年代中頃からの話です。

 

 

記憶に残る沢山の経験の中で、1番古いものを掘り返してみると

 

 

その頃僕がされていた事は、僕の中ではいじめられてたと言う感覚ではありません。

 

 

『めちゃくちゃムカつく事されるし痛い事されるし、嫌な事言われるけど、自分の体が小さくて何もやり返せないし大きな人相手に何も言い返せない。』

 

と言う感覚でした。物事や世の中を良くわかってない子供ながらに、辛いけどどうしようもないと思う、だからめちゃくちゃ泣き虫でした。

 

でも、いつも『コイツら、絶対いつかやり返してやる』と思ってました。

 

そんな事を察したのかなんなのか、親が、おそらく2人で何かを話してくれたのでしょう。

 

 

 

父に、『弁慶の泣き所を一発、蹴り飛ばせ。ただし一回だけだ。それ以上やるな。いいか?やられたままで終わるな。いいか、一回だけだぞ、めちゃくちゃ痛いんだから。一回でおさめてこい。』

 

 

と教えてもらった事が僕のやり返しのきっかけになります。

 

 

 

幼稚園で、2つ歳が上の男の子。学年を混ぜこぜにして山の中で遊ぶのが中心の幼稚園。

 

体格も年齢も精神性もまるで統一されない中で生活するタイプの今ではちょっと珍しい幼稚園

 

相手はめちゃくちゃデカく見えるし怖い

 

小さい頃の僕からすると最強の人。そんな相手に身体が小さかった僕はやり返さなければならない。

 

そんなど緊張な気持ちで過ごしていたのを思い出します。そしてついにいつもの様にまたいつものグループで、3人がかりで嫌な事をされた時、父に教わった通り、1番デカくて1番怖い子の弁慶の泣き所を、一発、思いっきり蹴っ飛ばしました。

 

するとどうでしょう?

あんなに怖かったアイツが、地べたに転げ回って、思いっきり泣きまくりました。

 

 

僕はこの時、めちゃくちゃびっくりしました。

 

もちろん園長先生に呼び出されました。僕はめちゃくちゃ怒られると思ったので、とっさに、「違う!僕はやり返しただけだ!」と訴えました。おそらく、最強だと思ってたアイツがあんなにビービー泣きながら痛がっているから、やり過ぎたと思ったんだと思う。絶対こんなんじゃダメージ入らないだろうってくらいにめちゃくちゃ恐ろしくて強い人に見えてたけど、ついこの間まで泣き虫だった僕と同じ人間でした。

 

でも園長先生からは、僕の思っていた反応とは全く違うのが返ってきました。

 

僕にとってこれが、大きなポイントでした。

 

「今まで気づいてあげられなくてごめんね。良く頑張ったね。そして、良くやったね。」

 

と褒めてもらえたのです。

 

今思えば、おそらく親が既に伝えてくれていた様に思います。アイツずっとやられてっから、でも今日やり返すから。みたいな感じで。だから許された事だと思う。

 

 

 

良くいじめ問題で言われるのは、始めにいじめられてた方は周りの大人に言えず、やり返したら途端に自分が加害者になって怒られるという話。

 

控えめに言っても、まあなんと言う理不尽。

個人的にはマジでクソ喰らえ。やられる覚悟ねえならやるな、テメェが巻いたタネだ。と、思います。とてもじゃないけどそんな事になってたら僕は納得なんて出来なかっただろうと思いますね。

 

 

 

 

『やられたらやり返せを教えてくれた父』

 

『それをやるにあたる舞台を周りの大人が見守ってくれてた事』

 

今の時代でこれが子を持つ親や教育の場で許されるのかは知りません。でも僕の時代にはこういった事が凄くありがたかったです。大人が用意してくれた舞台、これが僕に大きな影響を与えてくれたと思います。

 

 

 

ちなみに、この件以降、『お前やるじゃん、強いな。』となり幼稚園でのいじめはピタリと止みました。

 

 

ここまで書くと美談になるのですけどそれは不本意です。これは美談ではない。

 

僕はこの後、嫌な事をされたら、腹が立ったら1回はやり返して良いという自分ルールを子供ながらに手にしてしまい、他にも色々やってきたり言ってきたりした人に、言い返したり同じ事をやり返す事によってめちゃくちゃ怒られる経験もしてます。それは、その先は大人が用意されてくれた舞台ではなかったからだとも思います。

 

分別や物事の判断が上手くできない子供です。

 

 

カウンター、倍返し、過剰防衛

 

何にせよ自分では一回のつもりも、やり過ぎれば立場は逆転する。

 

 

よくよく考えてみれば、言葉が違うだけで

 

 

 

パワハラモラハラ、セクハラに加えて、弱ハラ(弱者ハラスメント、あるいは弱者マウンティングというそうです。)これらは今で言ういじめの類なのかもしれませんね。

 

 

 

いじめにおいては、いじめられる側のハラスメントというのは安易に認知すべきではないとは思いますが、一方で、かなり今、危なかっかしいなと思っているのは、『大人社会では弱者ハラスメントは至る所に蔓延ってる』という事が隠されている。あるいはそれを認める事は恥ずかしい事の様に処理される。とても言い出しにくい雰囲気が漂っている。

 

 

 

先に述べた通り僕の記憶では二十歳を超えてからの方が、こう言った記憶の数も質も鮮明に残っている。

 

 

 

つまりここで何が言いたいかというと、

 

「いじめ」についてまだひた隠しにされてきた子供時代を生きた今の大人世代の僕ら。その大人社会の中にも複雑ないじめが存在しているのに、それに目を瞑り形式的に蓋をしている大人の僕らが、子供を見守ろうとするから本質を見落としてるのではないかという事です。

 

 

強者であろうと弱者であろうと、立場が上だろうと下だろうと、相手に嫌な思いや辛い思いをさせる事は十分にあり得る。自分の記憶に根強い方をとって、自分はどちらか一方であると誤認識したり、あるいはこういった事に加担した事はないと誤認する事が1番やっかい。だという事にも言い換えられる気がします。

 

 

 

 

 

俺は私はいじめた事がない!

本当に?

 

僕はわたしはいじめられた事があるんだ

それはそうかもね。

 

その逆は?本当にないと言い切れる?なぜ?

 

 

被害者でいると、その手前で、あるいは後の加害者にもなっていてもその事に気づけません。僕はこれが弱者ハラスメントの一部だとも思っています。

 

 

大人になると被害者であるという事や、加害者であるという事を認めづらくもなるし

 

こう取り糺されると、余計に認めたくなくなりますよね。

 

でも社会生活を送る中で、当たり前のように存在してておかしくない事ではないかと思うわけです。

 

僕は、人間はそんなに合理性を持った生き物ではない気がする。

 

 

 

 

 

でもこれって自然だと思いませんか。相手の立場に立つってめちゃくちゃ難しいですよね。綺麗事ならべて、だから良くないんだと言ってれば無くなるんでしょうか。

 

 

僕はそうは思えないんですよね。

 

 

これはもう、ここからこっちが加害者でここからこっちが被害者と綺麗に線を分けて行う事ができませんねというお話なのだと思います。

 

 

そして、いじめられる側にも理由があるとかそういうそんな単純な話ではないとも思っています。

 

 

そりゃ理由はあるのでしょう。しつこく話しかけてくるとか空気が読めないとか、元々ウザいとか、臭いとか、汚いとか。相手を不快にさせる理由がある、そんなのは自然な事だと思いますが、

 

 

それを言い出したらキリがないし、アンタだって万人に受ける人畜無害な人間と言い切れるか?と質問を変えたら一体何人が、絶対イエス!と言えるのだろう。

 

 

 

そもそも自分を不快にする人間を叩き潰していったら自分の住む世界は、少なくとも身の回りだけは平和になるんでしょうか。

 

不快に思う人間。

 

自分がそういう人間である可能性対して必要以上に嫌悪すると、そういう人間を目の前にした時に憎たらしくなる気がするんですよね。

 

自分はこうありたいという感覚が強すぎるあまり、人間はこうあるべきだという思いにすり替わる事って良くありませんか。

 

あるいは自分はこうなんだから世の中こうでないと生きづらいという感覚が肥大したり

 

その結果自分が嫌いなタイプの人間をのしてしまう事、これってとても子供的でいじめに近い感覚だなって思います。

 

でも、それって僕らの住む社会で日常的に見受けられませんか。

 

 

電車で舌打ちする人

 

肩をぶつけてくる人

 

必ず相手がいます

 

された方が非常に不快だとしたら

 

した方は快感でしょうか

 

その手前で自分が相手に不快な思いをさせてませんか

 

させてたらどうだと言うものではないし、それが舌打ちや暴力を許容する理由にはならないと思います。それに自分の機嫌くらい大人なら自分で取れよというのは僕も思います。

 

でもそれを言ってても、やっぱりずっと水掛論。

 

 

輪をかけて大人の経験や価値観が複雑。

 

 

 

 

しかし、よくよく考えてみると、嫌な事をやりたがる人って少なくありませんか。幸せに人生歩みたいし心穏やかに過ごしたいと思うのって別におかしな事じゃないですよね。

 

それを害されるから気分が悪くなるんですよね。

 

 

いかにしてそれを上手く回避して穏やかな生活を達成するのか、その一つにフォーカスを当ててみると

 

 

 

相手もそう、自分もそう、という前提を受け入れる所がスタートな気がしてきます。

 

 

 

 

かくいう僕は、いじめやハラスメントの無くし方をわかってるわけでもなく、僕も散々されてきてるし今もされてるし、気づかない所でして来てるかもしれないししてるかもしれない。

 

だからあくまでも僕はこう思うんだけど、というものに過ぎないただのブログなんですけど

 

 

書く事によって何かないかと思った次第です。

 

 

リョウマサヒロの名刺が出来ました ※デザイナークレジット記載

皆さん、おはようございます、こんにちは、こんばんは。ドラマーリョウマサヒロです。

 

 

この度、ドラマーとしての名刺が出来ました

 

f:id:ryomasahiro:20230321145134j:image

 

※インターネットリテラシーとして一部ぼかし有り

 

 

 

今回はカードサイズ、名刺サイズの2パターンを作成しています。

 

こちら裏面が僕のホームページのQRコードになっていまして、そこから僕の仕事のポートフォリオやバンドの情報(LANPAZIE)、他アーティスト様の参加作品の情報などにアクセスできるリンクツリーになって行く予定です。

 

そちらも併せてご覧頂けたらと思います。

 

リョウマサヒロHP

https://lit.link/ryomasahirodrums

 

 

 

今回、名刺にするにあたり、アイコンが欲しかったり、オリジナリティのあるコンセプトを打ち出して行きたかったので、自分で作るのではなく、デザイナーさんにお願いしました。

 

 

デザイナークレジット

 

 

デザイナー・アーティスト名:Lusica

 

所属バンド:(Break Up Street)


Twitter:@OrangeLusica

 

バンドTwitter:@BreakUpStreet


 

 

今回の名刺の、ドラムセットの絵や、描かれてる僕の顔のアイコン、背景イメージのデザインまで、Lusicaさんが手掛けて下さっています。

 

様々な要望やアイデアを2人で持ち寄り打ちあせて出来上がった僕のお気に入りです。

 

またアイデアとして僕のステージネームだけ、僕が筆ペンで書きました。そのアイデアの提案もLusicaさんにして頂いてます。

 

 

f:id:ryomasahiro:20230321145149j:image

 

 

Lusicaさんはデザイナーとしてだけでなくご自身もバンドや職業ドラマーとしてご活躍されていて、音楽家として同じ業種である事や、デザイナーという餅は餅屋(専門職)という意味で、僕が初めて名刺を作るにあたっての不安点や疑問点をすごく具体的かつ迅速なレスポンスでご相談できたのがとてもとても助かりました。

 

例えば、僕がこういったデザイン名刺を初めて作るにあたって不安だったのは

 

・相手が名刺を受け取った時の印象

・名刺の紙質によるデザインの印象の変わり方

・文字のサイズ感や見やすさはどうすべきか

・そもそも名刺に何をどこまで載せるべきか

 

などです。

 

 

また、「何かアイコニックな印象を名刺で打ち出したい」という僕の希望を、一筆書きのドラムセットの絵として具現化していただけたそのアイデアそのものも、今回僕がとても気に入ってるポイントです。

 

 

 

ご自身がバンドやアーティスト活動をされてたりドラマーとしてご活用されてる点も、ドラマーである僕と非常にマッチングしていた様に思います。

 

世の中にいらっしゃる数あるデザイナーさんの中からLusicaさんに頼む事にして、良かったな。と思う点はたくさんありますが、特に感じたポイントはまさにここです。

 

また、デザイナーさんとしてはもうこれは非常にプロフェッショナルでした。

 

ご依頼した初めの方に、ポートフォリオ(仕事で手がけた作品集)を見せて頂いた時、名刺だけを取って見てもかなり沢山の種類のデザインを手掛けられていました。

 

 

 

 

自分の中での名刺のイメージが依頼する段階でまだ固まり切ってない僕でも、『名刺はこんなに自由度が高くて色々遊べる!』と言う事がわかって、月並みですが『めっちゃしっかりしてるデザインばっかりだ!』と言った印象を受けて、とても安心して依頼する事が出来ました。

 

 

アイコンのサイズや文字の配置、名刺を手に取った時の印象や、どういう順番で人は情報を見ていくかなど、細かなところまで配慮をしてデザインをして頂けたので、僕自身も『この名刺なら相手に渡しても大丈夫。失礼に当たらない。自信を持って渡せる!』と感じています。

 

 

 

ドラマー

LANPAZIE

リョウマサヒロ

 

続 バンドをやる事は享楽

 

 

 

 

 

 

バンドは、音楽をやる事の中でも特に享楽と言われる、周囲を巻き込む事そのもの

 

 

 

※享楽-快楽にふけって、十分に楽しむこと。

 

 

 

日本あるいは世界の歴史、宗教、進化生物学、政治経済

 

 

 

こういう事と一見無関係に見える、あるいは繋げるには幾つかのバイパスが必要に見えるバンド活動も、ここ最近は俺にはむしろこういう事と直結している内容にすら思えていて

 

 

その過程で、バンドって一体自分にとってどんな存在なのか、最近自分の中でそこをなおざりにしてはいられなくなっている。

 

 

 

 

切っても切り離せないのは、一旦簡潔にいえば、生活。そして、金。それと、関わる人間と、世の中の違和感。

 

 

それはどれにおいてもどんなエンタメもビジネスもプロダクトも同じであるとすれば、やはりバンドも同じく切り離せないはず。

 

 

世論的、あるいは、世の中の風潮、世渡り論的には、誰かの都合に悪いことや尖ったこと、あるいは同調圧力にハマれない発言は、口をつぐんだ方が良いのは非常にわかる所もあり。

 

 

しかし、それは世渡り論の話でしかない事は明確で、その裏では人と人の個と個がバチバチにぶつかり合っては壊れて、再構築されてを繰り返して残った物が世に出ていました。

 

 

あくまで音楽をやっている身としては、むしろ、そう言った世渡り論的なものに抵抗あるいは反抗する精神に見て見ぬふりするのは違和感があります。

 

ここ最近は、激務&激務な生活からやっと距離を置けるようになって数ヶ月過ごしていて

 

 

今までは時間とかタスクに追われて、気になるけど気にしてる余裕がなく、ほったらかし、あるいは後で、と置いておいた物事をやってみたり見聞きしたりして楽しんでいます。

 

 

元々は何かしらに反骨精神や違和感を抱いて、その気持ちを持ちながら音楽をやってきた自分にとっては、じゃあ自分は一体何に憤ってるのか、何と戦ってたのか、何に懐疑的であったのかというのもまた非常に重要な問題だと思う一方で、そういう事に対しての一切をとりあえず置いておいて、目の前にあるやれる事をやるしかなかったここ数年でした。

 

置き去りにした事を少しずつ手に取って見て、味わってます。

 

 

『世の中何かがおかしい』

 

 

そう言った世論が全くなかったとしたらもしかしたら要らないかもしれないけれど

 

 

やはりそんな事は無さそうですね

 

 

娯楽である以上、また自分の中から作るものである以上、もしそう言った生きづらさや憤りについて同じように考えてみるのは非常に有用だなと思います。

 

 

 

 

僕にとってバンドをやる事というのは、生きるために必要な事でもあり、享楽そのもの。

 

わざわざ、メンバーが必要

 

わざわざ、スケジュールを合わせ

 

わざわざ、スタジオに出向き

 

わざわざ、違う人間同士でぶつかり合い

 

わざわざ、…………

 

と、

 

便利になった今となっては、の「わざわざ」をつみあげてやっと

 

作り上げる物があるなと。

 

 

 

この、自分達あるいは自分の為にこのたくさんの「わざわざ」を積み重ねた結果味わえる旨味に浸る事が、俺のいう享楽そのものなのですが、伝わりますかね。

 

 

 

 

そこで比較対象というか、便利なタイプの娯楽というのを一応、一通りやってみました。

 

 

話題性のある本や、YouTubeの動画、最近流行ってるらしい音楽とか、ゲームやアニメ

 

そういえば映画も久しぶりに観たな。

 

 

色々と気づく事がありました。

 

音楽と、仕事やその周辺知識くらいしかあまりまともに触れてないと、本当にとんでもないくらいインプットが足らなくなる物なんだなと思った次第です。

 

 

 

経済論的に、物を売るという事も問題定義はあると思うけれども

 

 

もっと手前で、世の中のおかしさや、生きづらさ、ストレスにまつわる物がエンタメとしてたくさん作られていたのに驚きましたね。

 

そういった負のエネルギーが膨れ上がれば上がるほど

 

それを消化するエンタメに人が集まってる様にさえ思います。

 

そして

 

それを昇華するために必要なエネルギーはより多くなると思っていてます。

 

 

一方で、手軽に個人が参加できるタイプのエンタメも、自分より下の世代の人達には流行ってるんだなあと思います。

 

 

色々話は膨らみましたが、いったん戻して

 

 

内側で言えばこのようにして、俺は自分の為に音楽をやっているわけですが

 

 

 

そこから一歩出て考えて見た場合にね

 

 

それに共感してくれる人達の事を考えると

 

あるいは、何か自分が新しく知ったエンタメに集まっている人達の話してる事を観察すると

 

 

従来の、少なくとも数年前までの感覚とはもっと異常ズレた位置にある、なんだろうな、不安や不満を抱えていて、それらを消化してくれそうな物に人が集まっている様に見えました。

 

 

 

俺自身も御多分に洩れず何かに違和感を感じ続けているのでそれは非常に理解できます。

 

 

 

その正体を掴むことはもとより

 

ただ、その存在の大きさを知る必要があったわけです。

 

『日本経済の行く末が悪い』出来ればそんな事はぶっちゃけ専門家やお上の人たちに責任押し付けてこっちは知らんぷりしてたい内容でもあります

 

しかし、世の中は少しずつ混乱して

 

大規模な社会だけでなく、参加するコミュニティ内にも見えない不和がある様に思います。

 

 

さらには、時間やお金をエンタメに割く事が難しいメンタリティというのがあることも、仕事を通じて痛感しました。

 

そこにさらにお金という経済的な難しさも上乗せしてくるなら

 

 

重たい足腰を突き動かすほどのエネルギーや興味をこっちが提示できた方が良い。

 

 

月並みですが、ブルージャイアントを映画館に観にいったんですね。

 

 

それは、とある友人が、「映画館の音響で見る事に意味があると言わんばかりのツイート」

 

をしていたからと

 

また別の友人が

 

「観て欲しい。」

 

とダイレクトに連絡をくれたから。

 

 

普段、映画館に映画を見にいくのが面倒くさいと感じるタイプの僕も、こればかりは観に行った方が良さそうだなと思って行きました。

 

 

つまり、人に突き動かされたわけです。

 

 

 

何もするにもまず面倒くさいが勝る時、ちょっとやそっとでは、フラットに作品に共感できるかどうか、好きか嫌いか、かっこいいか否かの判断基準にひっかからない世の中になっているのではないかと思うわけです。

 

 

 

 

と、同時に

 

 

 

本当にそうか?と疑う自分もいるわけです

 

 

音楽ファンの人の声を聞く機会があった時なんかは、自分が思っている以上にシビアにライブハウスを捉えていたりもするし

 

でも一方で、やっぱり好きで好きでたまらないみたいな元気をもらえる声も聞けるわけです。

 

 

 

 

人の為や、お客さんの為というものの本質は良いものを作るという事と似てることの様に感じている一方で、

 

その一部分を切り取って上辺というか、見下げた態度のものも実際には世の中にたくさんあるわけで、俺はそっちはあまり好きではないから、出来ればそうならないようにとアンテナを張ろうとした時

 

 

 

今世の中で次々と生まれるエンタメに触れる時間があまりに少な過ぎたなと痛感しています。

 

 

 

必要なのは自分を突き動かす事なのだけど、それを他者に共有して巻き込む必要があるのがエンタメなのだとしたら

 

 

 

巻き込まれる人の不便さや感じてる違和感の本質を掴んで、それに対して音楽で中和できるほどの、本音を言えば吹っ飛ばしていけるほどの作品やライブを、出したいと思いました。

 

 

さて、少し前までは本当に漠然と良いライブをすれば良いと思っていたらやってきたコロナ禍

 

 

そのコロナ禍を経て立ち止まる事はなかった少し前まで。

 

 

そして、マスクは個人の自由が先日解禁?されたわけですが、仮にこれがコロナ禍の次のタームだとしたら

 

 

そのタームでなんと立ち止まるタームに入った俺(人生的にね)

 

この時間に一体何が出来るかなーとゆっくり考える事ができるくらいには時間に余裕が出来ました。

 

 

いつまでこんな時間を貰えるかはまだ分からないけど

 

 

こんな時間の過ごし方、めちゃくちゃ久しぶりで時間の使い方に困る。

 

というか自分がエンタメを消費する側に立った時に興味が失せる感覚があります

 

これは一体なんなのか。本来なら時間があれば色々できるのに、ついつい手軽な物に手が伸びてしまいます。

 

 

(娯楽と享楽を似て非なる物として)

 

 

世の中にはあらゆるテクノロジーがあって、欲望もあり、便利な物があり

 

 

娯楽は次から次へと生まれてきて

 

 

非常に魅力的なコンテンツがたくさんありますね。

 

 

あまり人に合わない時間が久しぶりに続いているわけですが、そうなって見てそれに合わせて色々と面白そうなシステム(テレビでネット見れるやつ)導入したりしてみました。

 

 

活用してみると非常に便利の連続で、いっときは勉強するのも遊ぶのも全てネットで代替できちゃった。

 

かなり便器ではあったのだけど

 

 

たった唯一の問題は

 

 

 

 

『孤独に打ち勝ってる気になれる事』だと思う事があります。今のものはゲームひとつとっても簡単に人と繋がれるんですね。オンラインゲームと言うものを初めてやってみて、びっくりしました。

 

 

 

一方で、

 

その手軽に消費できるエンタメの内側では、かなり手が混んでたり、手間暇がかけられていたり、マンパワーがあったり、コンテンツに相当な魅力があったりと、片手間で作る事ができる物では無い気がしています。

 

言い換える一つの手段としては、自分が手軽に手を出せる娯楽は、作り手にとっては自分らが思った以上にガチガチのビジネスなのかもしれないという事。クオリティが異常に高いです。

 

 

そこまでやって、人に手軽に消費してもらえる娯楽なんだなと、あえて飲み込む事ができれば

 

 

手軽な娯楽ですらこんなにクオリティが高いのか!と言うのが正直なところです。

 

 

 

本当はすぐそこまで迫るかもしれない孤独や違和感はこういったもので隠す事ができます。

 

 

少なくとも多数の人が感じているのだとすれば、それらをどのくらいのエネルギーがあれば、自分達の音楽を対抗手段として選んでもらえるかを考える事ができる気がする。

 

 

エンタメでなくても、良いのだけど

 

 

 

今自分が行う事全てが消費ベースになってみて思うのは

 

世の中の物はこんなに手間暇かかってるもので溢れてるのかと思った事です。

 

 

じゃあ自分が何かを作ろう、提供しようと考えてみると

 

 

俺の中では何かを諦めたり曲げたりして対応すべきではなくて、むしろ

 

突き詰める、あるいは突き抜ける方向に行くしか活路が見出せなかった。

 

果たしてあたってるかどうか

 

皆さんはどう思いますか。

 

実際、手軽なものの中には、クオリティは非常に高いけど、似たり寄ったりのものは凄く多いです。

 

ゲームにしても何にしても、ベースとなる物はさほど変わりません。

 

例えば僕が好きなRPGは、オンラインだとすると

 

だいたいがオープンワールドゲーム。ガチャを引いて当たりが出れば無課金、うまくいかなければ課金してゲームの難易度についていく手法。

 

ゲームそのものは基本無料ダウンロード。

始めるのはとても手軽。

 

 

 

 

 

 

 

クオリティって一体なんなんでしょうか。

 

大切だなと思ったのは

 

仲間をたくさん作っていく事。

 

1人で生み出すエネルギーより専門性のある人がより多く関わる物の方が、圧倒的量のエネルギーが生まれる。

 

これは今回のレコーディングを通しても痛感した事。

 

そして、仕事において振り返ると反省点として見えてくる事です。

 

 

何かを自分だけでやろうとすると

 

色々やらなければならず、タスクを処理する事に目的がズレていってしまう。

 

でも任せられる人と関わると

 

本当にやるべき事そこに注力でき、与えられた役割のクオリティを上げる事にリソースを割けます。

 

 

 

 

 

 

1人ではできない

 

 

でも2人なら、あるいは3人なら出来るかもしれない

 

この大前提だったものが形を変えて、今になって大ヒントをくれたと今更ながら思うわけです。

 

 

 

娯楽を楽しむ事と言うと漠然としてるけど、それは生きる気力、という事と隣り合わせな気がしてなりません。

 

 

 

これらのことは一見して言語化は難しいけれども、そこを諦めず言語化にとりくんでみると、

 

そこには色々な価値観や学問や哲学が存在している様です。

 

 

その中で自分が思う正解という物があり、相対的に間違いと思う物がある。

 

 

それらを出来る限り多く、正解に近い何かで埋め尽くす事が出来るのがたまたま自分にとってはバンドだったんだと

 

 

 

 

今更ながら思います。

 

リョウマサヒロ

 

 

俺の俺による俺の為のLANPAZIE加入について

始めは堅苦しい外向きの挨拶を考えてたんだけど、俺そういうの苦手だから、ちょっと無理でしたね。

 

だから代わりに、俺語で書きます。

 

 

 

 

 

 

 

そうですね、どこから何を話そう

 

 

 

 

俺、俺から言ったんです。LANPAZIEに加入するっていうの。柴兄、そしてジュニア。この2人に頼まれたわけじゃないんですよ。

 

 

 

 

俺の中で、これが何よりも1番大切なポイントです。

 

俺にとって、バンドに加入する事というのは、いつだってそうだけど、誰かに頼まれてやるもんじゃない。俺はそういう人間です。

 

俺が、自分自身の為に、このバンドに加入するって決めたって事をお伝えしたい。

 

 

そして、俺よりもっとLANPAZIEを長く観てきて、ファンでいる方々がいるのを俺は知っています。

 

 

それを背負ってライブするのと、サポートの仕事としてライブする事。

 

たった俺の中での話です。

 

 

 

俺自身が決めたと言う事を、LANPAZIEを応援し続けてくれている人に向けて、話したかったので今回はこの文章を書いています。

 

俺にとっての自分の為

 

それがLANPAZIEにとってさらにバンドが良くなる事に作用すれば、こんなに有難い事はないなと思っています。

 

 

読んで頂いてありがとうございます。

これをもってメンバー加入のご挨拶に変えさせて頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

追伸

 

 

先日のライブで告知がありました通り、その3人で作ったフルアルバム音源を出します。

 

そのレコ発は、ワンマンです。

 

令和五年五月十四日

大塚MEETS

 

 

俺も俺の為にこれからもやり続けます

 

あなた達もあなた達のために俺たちの音楽を楽しんでくれると嬉しいです。

 

そんでもってその2つが、この日に交差する事を、俺は本当に心から望んでいます。

 

 

リョウマサヒロ

 

 

 

 

 

 

 

 

この世から犯罪がなくなる魔法を唱えられるとしたらこの世は平和になるのか

 

むかし、大学の特別授業だったか、企業研修だったか、社会心理学セミナーだったか

 

 

 

何故か頭に残ってるこんな問いかけについて議論した記憶があります。

 

確かこんな内容でした

 

『この世から犯罪がなくなる魔法を唱えたらこの世の中は平和になるのか』

 

これを考える上で設定は3つ

 

1.この魔法は何度でも唱えられる事

 

2.この他に魔法は存在しない事

 

3.平和の定義を犯罪がない事とする事

 

 

※出題者への質問は一切受け付けず、回答者は「なる」もしくは「ならない」を先に答えその後理由を述べよ。

 

 

 

本来なら、平和の形は様々で、犯罪がなくなったら世の中が平和というのは、本質と外れていると思います。

 

 

しかしあくまでもこの設定だとして、という事だったと思います。

 

これはグループワークで行い、各班が問いを考え他の班がそれに回答するという変わったスタイルでした。

 

そんな中でとある班が出した議題。

 

様々な回答が出ました。

 

僕らの班の回答は今回は気が向いたら書くとして、

 

 

とある他の班から出たのユニークな回答を書こうと思います。この回答が非常に頭に残る内容で、当時の僕には衝撃的でした。なるほどその考え方は面白いと思った内容です。

 

 

 

 

 

 

その班はこう答えました。

 

『回答は「ならない」。

 

まず私たちは、この設問に対して、犯罪はなくしたいけど、なくならないだろうという事を想定した。

 

そしてそれを証明する為、初めに「平和になる」と仮説を立てて考えた。

 

するといくつかの矛盾点が生まれてきた。

 

まず設定3:世の中から犯罪がなくなるという事が平和 とするならば、魔法を唱えた段階で平和は達成されるかのように思える。

 

しかし、設定1:魔法は何度でも唱えられる とされている事を考えると、訪れた平和の中からまた新たに犯罪が生まれる事を示唆している。

 

そして犯罪が一度消えたら2度と出てこないという設定がない点が重要である。

 

つまり、平和になった後に犯罪が生まれ、また唱えては生まれ、幾度となく繰り返す。

 

そしてその繰り返しの歴史を俯瞰してみると犯罪は全く無くなっていない。平和な瞬間があるだけで、議題となる世の中が平和になっているとは到底言い難い。

 

そしてその結果、犯罪が消えてはまた生まれる状態が当たり前となり、それ自体が普遍的な事実として平和な世の中が達成されない事を証明する結果となる。

 

そして設定2:この他に魔法は存在しないという事 これが何より救いようがない。解決策がない事を示唆している。

 

つまり、平和になるという仮説を立てて、その仮説が否定されたので、ならないという結論をだしました。』

 

確かこんな感じです。

 

 

これを聞いた時に、驚いたのを覚えています。

 

設問そのものへの取り組み方が、この班は唯一、『帰無仮説の棄却による証明』という方法で取り組んでいました。

 

ここでちょっと説明を挟むと、これは主に統計学で使われる手法なのだけれど

 

自分達が証明したい設定をまず立てる

 

例えば今回で言えば、「平和にはならないだろう」という自分達の意見を立てるという事になります。

 

そしてそれを証明するために、

 

自分にとって都合の悪い仮説を立て、その仮説が否定されれば、自分たちの都合の良い仮説が証明できるという事ですね。

 

この都合の悪い仮説の事を、帰無仮説

 

それを否定する事を、棄却

 

と言います。

 

よく統計学で例えに上がるのが

 

『人間と犬が違う生き物である事を証明しなさい』

 

という例題です。

 

この場合は、証明したいのは人間と犬は違う生き物であるという事です。

 

その証明の為に、人間と犬は同じ生き物であると仮説を立てて、

 

そこに対する矛盾点を徹底的に挙げて

 

つまり人間と犬を同じというのは無理があるので、違う生き物ですとする方法です。

 

この班は、答えの無いこの問題に対して

 

 

かりにこの設問の答えがこうだと仮定しよう。

 

 

そして「この設問自体への反駁」という形で切り込んでいます。

 

 

 

こういった方法は統計学の様に数字があり、答えが明確に見えてくる問題や

 

 

人間と犬のような対象物の比較問題だけでなく

 

 

答えがない1つの問題に自分なりの考え方をまとめるのにも有効な方法だったりもすると思います。

 

 

または、同じ手法を使って

 

 

人間と犬は実は同じ生き物と考えることもできるのでは?

 

というようなちょっと屁理屈じみた小話をする事もできたりします。

 

 

 

閑話休題

 

 

 

僕らの班含めてほとんどの班が、「なるのかならないのか不明」のまま議論を進めていく中で、この班だけが設定を考察した上であえて「平和にならない事の証明」という問題として置き換えて考えていました。

 

ちなみに、この方法のメリットは、平和にならない事の証明をするために、あえて行った「平和になるという仮説」に、矛盾がなかった場合には、フラットに、ならないと思ったけどなった。という回答にたどり着けるので、何かを分析する時には役立つ手法だと思います。

 

 

 

…と、思っていたんですが。

 

 

 

 

答えがどちらかわからない時、僕もやりがちですが、または目的が定まってない時、議論が進まず不十分なまま結論が甘くなったり、無意識で自分の都合の良い設定に流されやすく、それを証明する為に自分の都合の良い方向へばっかり目が向いてしまい正しく考察できなくなってしまう事がしばしば。

 

 

 

この出題はファシリテーターの人が再度取り上げて、

 

今から今度は自分達が出した結論を、徹底的に自分達で否定して、逆の結論を出してみて下さい。

 

そしてそこから学んだ事を付け加えて発表して下さい。という事になりました。

 

 

 

僕がユニークだと思った班は次は、先ほど行った自分達の素晴らしい論理的思考から出てきた回答と根拠を自ら否定して、「なる」としなければならない。一体どう答えるのかがとても楽しみでした。

 

 

そして案の定、僕に大切な事を気付かせてくれました。

 

結果から言うと、さっきの話は理論の構築の方法の話。次の話は、その結果出てきた結果の読み取り方にもまた人はバイアス(偏見)が入るから注意が必要ですと言う事を気付けた事。

 

 

 

 

 

さて、ほどなくしてその班の2回目の回答発表の番がやってきました。

 

 

 

『先ほどの根拠には矛盾が存在する。私たちは大きな見落としをしていた。

 

まず第一に、1回目の回答の中で「繰り返す歴史の中で普遍的に犯罪がなくならないという事を証明している」と説いたが、ここにまず矛盾が生じる。

 

まず1回目の時この問題に取り組むにあたり、大前提として犯罪は無くすべきである、あるいは無くしたい物であるという立場から無意識で考えた上で、なくならないという前提に立って考えた。

 

しかし今、私達は先ほどの理論を否定しなければいけない。

 

その為に次に考えたのは

 

「ではもし、犯罪は無くすべきではないという前提だとしたらどうなるか。」という事である。

 

そして同じ様に、今度は犯罪はなくすべきでない犯罪は犯すべきであるという立場から、1回目と同様に

 

平和にならない事を証明するため「魔法により犯罪がなくなり平和になる」という仮説立ててそれを棄却する事にした。

 

この場合、無くしたい人からしたら何度も犯罪が起こり、消して無くならないと感じる様に、無くしたくない人からしたら何度も無くなってしまうことになる。そう感じるとしたら、長い歴史の中で何度も犯罪がなくなることになり、その結果普遍的に犯罪は何度でも無くせるという証明が成り立ってしまう。そうなると、「犯罪はなくなり平和になる」という仮説が証明されてしまう。さっきと同じ事をしてるのに、前提をひっくり返したら見え方や結果も変わってしまった。何故こんな事になったのかまだ私達はわかってません。。。。。。驚いてます。

 

犯罪がなくなった状態を平和とするなら、何度も平和になっていることもまた証明しているとも言える事になります。よって犯罪なくなり、平和に「なる」という回答に。さっきの私たちの理論自体がおかしいのでは?と思いました。

 

私たちは、このディスカッションで、立場や前提が変われば物事が180度変わって見える事を学びました。

 

これは世の中のあらゆる事に言えるのではないかと思います。私たちはもちろん犯罪は無くすべきと考えています。

 

しかしもし本当にそれを考えるならば、逆の立場の、そう犯罪はなくすべきではない、あるいは起こしてしまう人の立場に立って考える必要があると学び、またそれもあらゆる事象に言えた事なのではないかと、思いました。』

 

 

 

ザックリになるけどこんな感じの回答だった。

 

 

 

僕が、批判的吟味、クリティカルキンキングというのを大切にする事になったキッカケとなった思い出、経験の話でした。

 

 

1回目の回答は僕には完璧だと感じました。しかし、その理論も、人は何かを考えるなかで、無意識に自分の都合の良い前提を置いて考えてしまう。しかしそれをひっくり返したら、真逆の答えに。

 

 

余談として

 

当時の僕の班の回答を紹介します。

 

1回目

『平和には「なる」。何故なら魔法を使えば犯罪はなくなるという第4の設定が設問中には存在する時点で平和は達成される。あとは実際にその平和が維持される事を考えなければならないが、犯罪がない事が平和であるという設定3によれば、常にその魔法を唱えていればそれを解決できる。この問題では魔法を使える人の数を言及されていない。なのであれば世界中のどこかで24時間365日その魔法を唱えていれば良い。設定1によってそれが可能である根拠があり、その魔法を妨害する魔法が存在しない事を設定2が指し示している。』

 

2回目

『先ほどの理論で行くと、犯罪をなくせる魔法を常にかけ続ける事を行えば可能と説いたが、ここで一つ考えなければならないのは、実際にそれが本当に可能なのかという点である。

 

魔法により犯罪自体は消せたとしても、犯罪を起こしたいという人が消えるわけではない。

 

そうした場合、消えた瞬間からありとあらゆる妨害行為が可能である。

 

一つには、これは犯罪を起こせなくする魔法でないという点。つまり、無くせるという事と、起こらないという事は同義ではい。設定2:により他の魔法は存在しないが、それ以外にはいくらでも妨害が可能という事を見落としている。

 

二つ目に、魔法をかけられる人の命を殺めてしまう等、魔法がかけられない状態を作る事がいくらでも可能と言う点。

 

三つ目に、仮に犯罪の定義が法によって定められるとした場合、この魔法の使用を法で罰すると取り決めた場合は、この魔法自体が犯罪となってしまい効力を失うと言う点。

 

犯罪を無くすという事を考える場合、こう言った点を踏まえてさらに設定を深める事ができる。

 

今回私たちが学んだことは、どんな設定や理論にも、必ず穴があるという事。その前提を覆す作業よってより深く目的を達成する為の案を考える事ができる事を学びました。」

 

 

 

リョウマサヒロ

 

 

 

【おまけ】

 

 

 

人間と犬は違う生き物か?

 

 

いやいやちょっと待て

 

 

例えばそうだとしよう

 

 

しかし

 

そうだとするにはおかしいくらいに

 

 

人間と犬には共通点がたくさんある

 

 

例えば、人間も犬も、卵ではなく赤ちゃんが生まれてくる

 

 

人間の食べ物を犬も食べる事ができる

 

ドッグフードは美味しくない?

 

僕が美味しいと思う辛い物を食べれない人だっているぞ

 

納豆を食べる日本の文化を、あり得ないと考える肌色の違う国の人もいる

 

 

 

その人達は違う生き物なのだろうか。

 

 

犬はしゃべらない?

 

 

本当にそうだろうか

 

僕はスペイン語はわからない

 

 

ドイツ語もわからない

 

アメリカ人も日本語をしらない

 

 

でも知ろうとする人がいて

 

 

知る人がいる

 

 

犬の言葉がわからないから意思疎通はできない?

 

 

君は外国の人と意思疎通したことは無いのか

 

 

外国の人の言語がわからなくても、楽しいねとか、悲しいねというのは、読み取れないだろうか

 

おや?読み取れる?

 

 

待てよ、犬も感情表現豊かではないだろうか

 

 

わからないのは、知ろうとしないからではないか

 

 

違う生き物であるというなら

 

 

外国の人は違う生き物ということだろうか

 

 

同じ人間なのに?

 

 

 

もし違う生き物ならば、相容れないもしくは分かりあうことは叶わないはずだ

 

しかし

 

人間と犬は心を交わすこともできる

 

どうやらそこに言語表現や見た目の違いは関係なさそうだ

 

 

 

 

そして共存することもできる

 

 

現に犬を家族として捉えて愛情たっぷり心血注いで育てる人を見た事はないだろうか

 

それは命を育む事だ

 

人の子を育てるのと本質的な違いはなんだ

 

人は死んではダメで犬は死んでいいのか

 

そんなはずはない

 

 

はたまた種族というのが違うだけで違う生き物と割切れるのだろうか?

 

 

子供ができない。

 

 

ヤギとヒツジは別の生き物のように思えるが

 

ヤギとヒツジの間に生まれたギープという生き物が実際に存在する。

 

 

確かに犬と人の間では今は難しいとされてるけど

 

ヤギとヒツジのように属が異なる交配は不可能とそれまではされてきた。

 

何かの拍子に人と犬の間に子供ができないとも言い切れないのでは?

 

 

 

あれれ?

 

 

人間と犬が違う生き物というには、あまりに共通点が多く、一概にそうは言えないのではないか?

 

 

 

もしかしたら、

 

 

人間も犬も、同じ生き物では?

 

 

 

 

【売ります】YAMAHA ジョン・ロビンソン シグネチャーモデル

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Twitterにて募集してます。ご連絡はDMにて

 

YAMAHA ジョン・ロビンソン シグネチャーモデル

 


BSD1550JR / No.0048

 

 

 

 

 

15×5という少し大きめなスネアのサイズですね。

 

ウッドフープの分、さらに大きく見えます。

 

マイケルジャクソンのバックドラマーを務めていた方のシグネチャーモデルのスネアです。

 

 

現在よく出回っているスネアスタンドであれば、取り付け可能です。

 

ただ、スネアスタンドの取り付け部のゴムの部分がやたら分厚いスタンドだと若干取り付けが難しい事があります。

 

かなり大きなウッドフープなので、

 

ボトムヘッド側のウッドフープの内径に合わせてスタンドに取り付けるタイプです。

 

当時お世話になっていたスタジオでレンタル品として出ていた物を無理言って購入させて頂き、バンドやアーティスト様のレコーディング等で使用してきましたが、ここ数年の自身の好みの変化か、このスネアを活躍させる機会がかなり少なくなった事、また新たな機材購入の資金を得る為に、今回売却を決意しました。

 

 

 

当時のカタログ定価 68040円(税込)

 

2000年台半ばのモデルで、現在は生産終了しています。所謂レア物の一種です。

 

サウンド

 

叩き手によって音が如実に変化するのはこのスネアの特徴の一つですが、ウッドフープという特性、15インチという口径の大きさから、スネアサウンドは比較的大きめです。得意なチューニングレンジは僕の体感だとミドル域に特化していると感じます。なのでハイピッチにした時も、張りがありつつ丸味のある音抜けの良いサウンドになる一方で、カンカンとしたハイピッチはサウンドメイクしにくい印象です。ローピッチで使用する場合は口径も相まって、ミュートをしない場合なら音の立ち上がりがゆったりとした、ふくよかなサウンド。ミュートをする場合は自慢のミドル域がより際立ち立ち上がりのしっかりしたふくよかな低音サウンドに仕上げる事が可能で、レコーディングではよく使用しました。

 

また、

 

購入時から探していますが、なかなかサイズの合うスネアケースがなかった為、私は普段少し頑丈なカホンケースにて運搬していました。

 

※スネアケースはご自身でご用意下さい

 

 

 

これらを参考に

・名前

・希望購入価格

・ご自身の簡単なプロフィール

 

をお伝えの上、ご連絡ください。

 

最低価格は誠に勝手ながらカタログ定価の半額の¥34,000-からとさせて頂き、複数応募がありましたらご提示頂いた金額も含めて参照させて頂きます。

 

 

 

 

このスネアをとても大切にできる方、価値を見出していただける方、または活躍させられるドラマーさんでも構いません。

(楽器愛があればドラマーでなくてもかまいません、定期的にメンテナンスを行なって頂ける方ならよりこちらも嬉しいです。)

 

 

 

 

失礼ながら、明確な選択基準がありませんので、連絡をくれた方の中から僕の独断と偏見で選ばせていただきます。

 

ご連絡お待ちしております。

 

【業界人の方との話】

今日は、有難いことに業界に別角度から精通した方とお話する機会がありました。

 

ちなみに音楽業界ではなく、薬局業界からのアプローチで知り合うことのできた方です。

 

 

音楽業界の話だと思ってブログを開いた方はごめんね。

 

その方は所謂、求人媒体や広告業界と言われるところに精通した人物です。

 

もともと、僕のもう一つの職種職能のコンサルタントをして下さっていた担当者の方が病により引退され、その後任としてご紹介して頂いた方です。

 

今日初めてかなり長い時間、顔を突き合わせてお話しさせていただきましたが

 

その業界で代表取締役を経験されバブルやリーマンショックなどを経験されたキャリアのある方で、今は次代を築く方のサポートとして動かれているそう。そういう方から頂けるお話は非常に興味深かったです。

 

話の具体的な内容は割愛しますが

 

終始一貫して話されていたのは

 

・人に勝る財産なし

・金は後からついてくる

・主因は内にあり

 

この3つです

 

一見当たり前の様にみえる一方で、前時代的にも聞こえがちな内容ですが

 

結局のところ、こういった非常に大きなお金を動かしている人たちは、この3つに必ず帰ってくるという内容ですね。

 

 

 

それから、薬剤師としての立場から見た薬局業界という目線の情報を、私にたくさん質問していたのも印象的でした。

 

おそらく、ご本人は既に知っていることの方が多かったように思いますが、別の角度から見て何が原因なのか、数多の業界の分析を行ってきた人は質問の仕方がとても印象的でした。

 

非常に多面的に物事を捉えて臨機応変に話し方を変えるその様子も、話しているだけでとても勉強になります。

 

そして、何よりも1番大切だなと感じたのは

 

経営理念

 

 

この理念のもと、統制の取れた仕事の仕方をしていて、それが側から見たら一目瞭然でその会社の強みとして目に写っていたのです。

 

強みを強みとして外側に発信できている理由はコレか。

 

と、すごく納得しました。

 

 

それと同時に、これはバンドにも言えるな。

 

とも思いました。

 

 

 

ものすごく興味深い体験ができたと思います。