ドラッグ&ロックン・ロール

音楽活動報告、よく思考のまとめを行います

いじめ

今朝、かなり胸糞の良くない漫画を見ました。最初に一言添えておくと、読後感は胸糞が悪かったけど、僕はとても意味の大きな漫画だなとは思いました。

 

自分の子供がいじめをしてしまっていたという内容の漫画の一部がネットに載っていました。

 

色々な事が世間では語られていて、またリプライにも様々な内容のコメントが寄せられていました。

 

いじめについての経験を語られる時、僕の感覚では、「されていた経験」は多く語られる様になったてきたなと思います。一方で、「していた経験」が語られる事が少ないなとも思います。

 

 

「いじめは加害者意識を持ちにくい」とか、「人はされて嫌だったことの方が覚えているもんだ」とか「していた事を自分から語るのはとても勇気がいるから」などと様々な理由が語られていて、そのどれもそうだろうなと思う反面、僕はその奥の根っこがいつも少し気になります。

 

 

これは良い機会だなと思うのと、この今朝の胸糞の悪さを消化する為に書いています。

 

 

先に僕の結論を書くと

 

『せめて大人になった今は、多少の事は許せる様になりたい。俺も許してもらってきてるはずだから。』

 

『度を超えた事は第三者を入れて社会的に解決(お金)も必要なくだりなのでは』

 

『特別な事だと認識して関わらない関わってはいけない事しないで、やり兼ねないやられかねないよくある話として受け止める。決してファンタジーにしない事。』

 

 

こんな感じです。

 

 

 

 

 

この話の漫画を見て初めに感じたのは、僕の場合は「嫌な事をされた経験全般を思い出してイライラ」する感覚でした。

 

幸(こう)と言えば良いのか、不幸な事なのかわかりませんが、僕の心に引っかかるトゲとして残っているこの経験は、その多くが大学生以降の経験です。

 

では子供の頃にいじめられた経験が無いのかといえば、そんな事はなく、むしろめちゃくちゃいじめられてたんだと思います。

 

と言うか、「いじめだったんだと思います。」が正解かも。

 

 

そして、という事は俺も「いじめてた側だったかもしれない。」という話でもあります。

 

 

僕の場合、今で言うところの、「いじめ」で言えば、いじめられていた事は何回もある一方で、いじめていた事もあると思っています。

 

 

 

そのどちらも、当時はおそらく、いじめだとは思っていなかったと思います。

 

 

「嫌な事をされた」「ケンカ」「ムカつく」「うざったい」そう言う感覚を行動で表現していた多くの子供達の中の1人だったと思います。

 

 

 

僕の中でとても強く思うのは、ここです。

 

 

僕はその人がある時点での被害者なのか、あるいは加害者なのかと言う事よりも、

 

 

生きていく中で誰でもやる側、やられる側になり、それを蓋して生きていく事に違和感を感じる

 

 

なんか包み隠されてる様な気がしてならない。

 

こう言う話になるとよく、いじめの定義に付いて語られる。それは良い事だけど

 

 

する側もされる側もその定義に則って行われるものではなく、本当にふとした瞬間に心を傷つけられ、あるいは傷つけてしまうものだと思っています。

 

 

その対処は大人であればある程度できるけど、大人が見守らなければならない子供達の関係においては対処が難しい、これがいじめなのではないか。

 

 

 

僕が子供の頃は、ギリギリ「いじめ」と言う言葉を口に出すのがすこーーーし、浸透してきた時代と言うか、いや、と言うよりもその多くがまだ「ケンカ」で全て片付けられていた頃。それがちょうど幼稚園とか小学校でした。ちょうど1990年代中頃からの話です。

 

 

記憶に残る沢山の経験の中で、1番古いものを掘り返してみると

 

 

その頃僕がされていた事は、僕の中ではいじめられてたと言う感覚ではありません。

 

 

『めちゃくちゃムカつく事されるし痛い事されるし、嫌な事言われるけど、自分の体が小さくて何もやり返せないし大きな人相手に何も言い返せない。』

 

と言う感覚でした。物事や世の中を良くわかってない子供ながらに、辛いけどどうしようもないと思う、だからめちゃくちゃ泣き虫でした。

 

でも、いつも『コイツら、絶対いつかやり返してやる』と思ってました。

 

そんな事を察したのかなんなのか、親が、おそらく2人で何かを話してくれたのでしょう。

 

 

 

父に、『弁慶の泣き所を一発、蹴り飛ばせ。ただし一回だけだ。それ以上やるな。いいか?やられたままで終わるな。いいか、一回だけだぞ、めちゃくちゃ痛いんだから。一回でおさめてこい。』

 

 

と教えてもらった事が僕のやり返しのきっかけになります。

 

 

 

幼稚園で、2つ歳が上の男の子。学年を混ぜこぜにして山の中で遊ぶのが中心の幼稚園。

 

体格も年齢も精神性もまるで統一されない中で生活するタイプの今ではちょっと珍しい幼稚園

 

相手はめちゃくちゃデカく見えるし怖い

 

小さい頃の僕からすると最強の人。そんな相手に身体が小さかった僕はやり返さなければならない。

 

そんなど緊張な気持ちで過ごしていたのを思い出します。そしてついにいつもの様にまたいつものグループで、3人がかりで嫌な事をされた時、父に教わった通り、1番デカくて1番怖い子の弁慶の泣き所を、一発、思いっきり蹴っ飛ばしました。

 

するとどうでしょう?

あんなに怖かったアイツが、地べたに転げ回って、思いっきり泣きまくりました。

 

 

僕はこの時、めちゃくちゃびっくりしました。

 

もちろん園長先生に呼び出されました。僕はめちゃくちゃ怒られると思ったので、とっさに、「違う!僕はやり返しただけだ!」と訴えました。おそらく、最強だと思ってたアイツがあんなにビービー泣きながら痛がっているから、やり過ぎたと思ったんだと思う。絶対こんなんじゃダメージ入らないだろうってくらいにめちゃくちゃ恐ろしくて強い人に見えてたけど、ついこの間まで泣き虫だった僕と同じ人間でした。

 

でも園長先生からは、僕の思っていた反応とは全く違うのが返ってきました。

 

僕にとってこれが、大きなポイントでした。

 

「今まで気づいてあげられなくてごめんね。良く頑張ったね。そして、良くやったね。」

 

と褒めてもらえたのです。

 

今思えば、おそらく親が既に伝えてくれていた様に思います。アイツずっとやられてっから、でも今日やり返すから。みたいな感じで。だから許された事だと思う。

 

 

 

良くいじめ問題で言われるのは、始めにいじめられてた方は周りの大人に言えず、やり返したら途端に自分が加害者になって怒られるという話。

 

控えめに言っても、まあなんと言う理不尽。

個人的にはマジでクソ喰らえ。やられる覚悟ねえならやるな、テメェが巻いたタネだ。と、思います。とてもじゃないけどそんな事になってたら僕は納得なんて出来なかっただろうと思いますね。

 

 

 

 

『やられたらやり返せを教えてくれた父』

 

『それをやるにあたる舞台を周りの大人が見守ってくれてた事』

 

今の時代でこれが子を持つ親や教育の場で許されるのかは知りません。でも僕の時代にはこういった事が凄くありがたかったです。大人が用意してくれた舞台、これが僕に大きな影響を与えてくれたと思います。

 

 

 

ちなみに、この件以降、『お前やるじゃん、強いな。』となり幼稚園でのいじめはピタリと止みました。

 

 

ここまで書くと美談になるのですけどそれは不本意です。これは美談ではない。

 

僕はこの後、嫌な事をされたら、腹が立ったら1回はやり返して良いという自分ルールを子供ながらに手にしてしまい、他にも色々やってきたり言ってきたりした人に、言い返したり同じ事をやり返す事によってめちゃくちゃ怒られる経験もしてます。それは、その先は大人が用意されてくれた舞台ではなかったからだとも思います。

 

分別や物事の判断が上手くできない子供です。

 

 

カウンター、倍返し、過剰防衛

 

何にせよ自分では一回のつもりも、やり過ぎれば立場は逆転する。

 

 

よくよく考えてみれば、言葉が違うだけで

 

 

 

パワハラモラハラ、セクハラに加えて、弱ハラ(弱者ハラスメント、あるいは弱者マウンティングというそうです。)これらは今で言ういじめの類なのかもしれませんね。

 

 

 

いじめにおいては、いじめられる側のハラスメントというのは安易に認知すべきではないとは思いますが、一方で、かなり今、危なかっかしいなと思っているのは、『大人社会では弱者ハラスメントは至る所に蔓延ってる』という事が隠されている。あるいはそれを認める事は恥ずかしい事の様に処理される。とても言い出しにくい雰囲気が漂っている。

 

 

 

先に述べた通り僕の記憶では二十歳を超えてからの方が、こう言った記憶の数も質も鮮明に残っている。

 

 

 

つまりここで何が言いたいかというと、

 

「いじめ」についてまだひた隠しにされてきた子供時代を生きた今の大人世代の僕ら。その大人社会の中にも複雑ないじめが存在しているのに、それに目を瞑り形式的に蓋をしている大人の僕らが、子供を見守ろうとするから本質を見落としてるのではないかという事です。

 

 

強者であろうと弱者であろうと、立場が上だろうと下だろうと、相手に嫌な思いや辛い思いをさせる事は十分にあり得る。自分の記憶に根強い方をとって、自分はどちらか一方であると誤認識したり、あるいはこういった事に加担した事はないと誤認する事が1番やっかい。だという事にも言い換えられる気がします。

 

 

 

 

 

俺は私はいじめた事がない!

本当に?

 

僕はわたしはいじめられた事があるんだ

それはそうかもね。

 

その逆は?本当にないと言い切れる?なぜ?

 

 

被害者でいると、その手前で、あるいは後の加害者にもなっていてもその事に気づけません。僕はこれが弱者ハラスメントの一部だとも思っています。

 

 

大人になると被害者であるという事や、加害者であるという事を認めづらくもなるし

 

こう取り糺されると、余計に認めたくなくなりますよね。

 

でも社会生活を送る中で、当たり前のように存在してておかしくない事ではないかと思うわけです。

 

僕は、人間はそんなに合理性を持った生き物ではない気がする。

 

 

 

 

 

でもこれって自然だと思いませんか。相手の立場に立つってめちゃくちゃ難しいですよね。綺麗事ならべて、だから良くないんだと言ってれば無くなるんでしょうか。

 

 

僕はそうは思えないんですよね。

 

 

これはもう、ここからこっちが加害者でここからこっちが被害者と綺麗に線を分けて行う事ができませんねというお話なのだと思います。

 

 

そして、いじめられる側にも理由があるとかそういうそんな単純な話ではないとも思っています。

 

 

そりゃ理由はあるのでしょう。しつこく話しかけてくるとか空気が読めないとか、元々ウザいとか、臭いとか、汚いとか。相手を不快にさせる理由がある、そんなのは自然な事だと思いますが、

 

 

それを言い出したらキリがないし、アンタだって万人に受ける人畜無害な人間と言い切れるか?と質問を変えたら一体何人が、絶対イエス!と言えるのだろう。

 

 

 

そもそも自分を不快にする人間を叩き潰していったら自分の住む世界は、少なくとも身の回りだけは平和になるんでしょうか。

 

不快に思う人間。

 

自分がそういう人間である可能性対して必要以上に嫌悪すると、そういう人間を目の前にした時に憎たらしくなる気がするんですよね。

 

自分はこうありたいという感覚が強すぎるあまり、人間はこうあるべきだという思いにすり替わる事って良くありませんか。

 

あるいは自分はこうなんだから世の中こうでないと生きづらいという感覚が肥大したり

 

その結果自分が嫌いなタイプの人間をのしてしまう事、これってとても子供的でいじめに近い感覚だなって思います。

 

でも、それって僕らの住む社会で日常的に見受けられませんか。

 

 

電車で舌打ちする人

 

肩をぶつけてくる人

 

必ず相手がいます

 

された方が非常に不快だとしたら

 

した方は快感でしょうか

 

その手前で自分が相手に不快な思いをさせてませんか

 

させてたらどうだと言うものではないし、それが舌打ちや暴力を許容する理由にはならないと思います。それに自分の機嫌くらい大人なら自分で取れよというのは僕も思います。

 

でもそれを言ってても、やっぱりずっと水掛論。

 

 

輪をかけて大人の経験や価値観が複雑。

 

 

 

 

しかし、よくよく考えてみると、嫌な事をやりたがる人って少なくありませんか。幸せに人生歩みたいし心穏やかに過ごしたいと思うのって別におかしな事じゃないですよね。

 

それを害されるから気分が悪くなるんですよね。

 

 

いかにしてそれを上手く回避して穏やかな生活を達成するのか、その一つにフォーカスを当ててみると

 

 

 

相手もそう、自分もそう、という前提を受け入れる所がスタートな気がしてきます。

 

 

 

 

かくいう僕は、いじめやハラスメントの無くし方をわかってるわけでもなく、僕も散々されてきてるし今もされてるし、気づかない所でして来てるかもしれないししてるかもしれない。

 

だからあくまでも僕はこう思うんだけど、というものに過ぎないただのブログなんですけど

 

 

書く事によって何かないかと思った次第です。