ドラッグ&ロックン・ロール

音楽活動報告、よく思考のまとめを行います

変わった

練習するのを辞めて今日でやっと1年

 

明らかに自分の演奏に良い影響が出始めてきた。長かった。

 

こんな書き方したら、サボってるっていわれそーね

 

まあそれでも良い。練習はしなかった。

 

どちらかと言うと、わからない事を分かるようにする為に時間を使った1年って感じ

 

そんなのは練習じゃなかった、もっと手前の話だったってだけの話

 

 

練習なんて、その先の話と気づいてから1年

 

何のためにやってんのか、何をやりたいから練習してんだか、そもそもそりゃーそーなるじゃん、って部分がゴロゴロと出てきて、自分で考えりゃ分かったものも、結構取りこぼしてたんだなあ、気づけてよかったと言う感覚。

 

 

それと同時に、あー、そゆこと?みんな言ってたのそう言う感じ?が分かるようになって、意外な収穫も多かった。分からないままやるのと、取り敢えず試してみるの違いくらいやっとちゃんと理解してきた30代後半。人生まだまだ楽しそー!

 

そろそろ練習できそう。

 

一皮剥けると嬉しいなー。

 

 

 

…誰にも共感されなさそー。笑

人間はクソである、名前は要らない

認識しうる可能性を概ね予想して生きてる人間は、嘯く物を除いて存在しない。その辺に出てくる愚痴も根拠のない期待からくる。個々の事象を全て個別に認識し、印象付け、評価し、これはこうであると決定することなど出来ないのは分かっていながら、勝手に期待する。私生活では多くの人と一時交わる。駅を歩けば肩がぶつかる距離で行く人もの他人とすれ違い、電車に乗れば視界にはいっぱいの人が映り込む。その中にはギスギスとした感情が蠢き、いつ着火するか分からない導火線に気をつけながらじっと目的地を待つ。このように一瞬すれ違うのにも、たまたま乗り合わせるにも、最新の注意を払わなければならないのが自分たちの住む生活区域での日常だ。俯瞰して考えるとまるで必要性を感じない異常事態が日常化しているのが人間社会である。

 

そこにはたくさんの事件が日々、視界に入らないところで起きている。有象無象の感情の先に、掛け違えたボタンがついに弾け飛ぶかのような爆発の後に、人がまた同じ人間とは思えない人の悪意に晒されている。あるいは、もっと細かく見ればそこにあるのはあるのは極々無意識的な主観と、うしろめたさだけけが残る傷つけ合いが日々、起こり続けている。 しかし問題なのはこれらは同じ人間の所業であるという事。

 

嘆くこともあり、憎いと思うこともあった。しかし、それと同時に今では周囲の人間が非常にごく当たり前に狂っている様にも見えている。あるいは、人が作った社会がもとから狂気地味て目に映る。それは自分自身を含めてのことである。例えば、一度極端な例を考えてみる。

 

とある日に見たニュースでは、殺人があったそうだ。蓋を開ければ、復讐だったらしい。娘を殺された父親が殺人犯を手に掛けようと復讐に燃え、悲願を叶えた。それを知り次に思った事は、このことは果たしておかしい事だろうか。という疑問だった。あるいは思うだけなら自由だろうか。では実際に手にかけたらどうだろうか。道徳と倫理と人道の話がしたいのではなく、人間という生き物を考えた時に、本当に想像できなかったことなのかという事だ。

 

愛娘を奪われた父親の気持ちにやり場がなくなった時に、その矛先を殺人犯に向けることはおかしいのだろうか、いや、道徳としてはもしかしたら人の命を殺めることは許されざるものなのかもしれない。しかし私はそれが起きたとしてなんの意外性も感じない。善悪の話ではなく、「なぜそんなことをしたのかが理解できない」と言うふうには一切思えない。それほど怒りが支配したのだろうと思う。人間は、極々くだらない理由ですら人を殺す生き物だ。であれば尚の事。そういう話を今している。

 

では、それは初めに愛娘の命が奪われた、という時系列だったから理解できるのだろうか。犯人が犯した罪の重さに比例して感情が動くのだろうか、それは否だ。罪の重さを司法で決めるとしたら、では司法が無罪と判決したら怒りをおさめ、死刑と判決したら怒るのだろうか。おそらく関係ない。ではこちらも家族を殺されたから、お前を殺すという道理から殺しているのか、いやそれも違う。そんな道理を考える余裕があったのなら、もっと他の可能性や生きている人たちの顔を思い浮かべる余裕があったはずだ。しかしそれを飛び越えて動いたならば、そうしなければならなかった理由があったはずだ。あるいは、何かに駆られたのだ。そう、そうせざるを得なかった、そうしなければ生きられなかった結果でしかないはずだ。

 

ではなぜ、一体なぜこの復讐心の末に人を殺めた人間に対して、嫌悪感を抱かないのだろうか。では、その手前で誰かの愛娘を殺した人間に対してはどうだ。これも、まるで嫌悪感を抱かない。では、いったい何故、どちらも全く理解できない事象として認識できないのだろうか。そう思えれば、随分楽だった。しかしその正体はおそらく、自分自身が怒りという感情を知っているからだ。そして、人間は理屈で動くのではなく感情によって動く方が自然だと実感しているからだ。そして、自分にとってはどうでもいい理由で他人は怒る事をよく知っているからだ。

 

そして、何かがそうさせている。

 

感情は時に人間を全てから解き放つ事がある。

喜怒哀楽全てにそう感じる。しかし取り分け怒りという感情のそれは、とてつもないエネルギーを帯びていると感じる。結果として理解できない事情を人が巻き起こした時、その裏には大抵理解できる感情が蠢いている。この行動は、愛娘を殺されたから復讐した、のでは言葉が足りない。同じ事をされても復讐しない人間は居る。

 

では行う者と行わない者との間では、一体何が決定的に違うのだろうか。それは感情に他ならないのではないだろうか。理屈は単純で、殺してやりたいほど怒った。ただそれだけのことがここまで人を突き動かすとしたら、全て納得が行く。

 

だからといってやるか?という問いが出てきそうだが、やったから事件になった。単純な話なのかもしれない。怒れば人は人を殺める。では、これが手前で起きた、愛娘が殺されたところに遡ったらどうだろうか。復讐であれば、まず初めに恣意的に娘の命が奪われた事になる。これも、あり得るだろう。実際に起こってることだ。あり得るのだ。何かがそうさせている。

 

これを、あり得ない。と否定してしまうと、理想と現実のギャップに苦しむ事になる。つまり人間は、自分の感情一つで人を殺すことさせえ厭わない狂った性質を持った生き物だという事を理解しなければならない。そしてその感情を呼び起こす要因はそこら中にある。そう考えると一つの可能性に気づく。

 

人は何をされたかではなくどう感じたかで動く、という事。娘を殺されて相手を殺す人がいれば、娘を殺されても相手を殺さない人がいる。それは感情を掌握できたかどうかで決まる。であれば、街で肩がぶつかっただけで人を殺す人間が存在する事にも頷けるし、振られた腹いせに殺す人間が居ても頷ける。それだけ人間は基本的にクソなのだ。これは、私だけは違うなどという根拠のない自信ほどあてにならない話。誰であれあり得る話として認識して頂きたい。つまり、一度でも感情に任せて何かしらの行動を起こしたことがある人間であれば、その先の全てをやりかねないという話なのだ。

 

つまり、感情を完璧にコントロールできると言い切れる人間以外は、やりかねない事なのだ。そして自分の感情を常に完璧にコントロールできる人間というのも存在しないという事にも触れておかなければならない。そんな人間一体どこにいようか?そもそも感情はコントロール出来るものではない。押さえつける事は出来ても、コントロールは出来ない。感じない、という事はできない。それは死んでいるのと同じだ。感情を完璧にコントロールする事によるメリットというのが、まずどこにも存在しない。そして、感情を完璧にコントロール出来るということは、感じてもない感情を呼び起こすことだってできると言うことになる。完璧というのはそういうことだ。つまり、感情は押さえ込むことは出来ても、コントロールする事は不可能という事だ。完璧でないのならば、つまりそれは全てがやりかねない事である。

 

だから私は赤の他人が最も気持ち悪く感じる存在だ。本当に気持ち悪いが、同時に同じ人間なのだと思う。これを知った時から、他人というのは何をするかわからない生き物に見えてならない。しかし、何をされても、人間は基本的にはそんなもんなので、それを念頭に置けば、「クソがまた何かクソな事をしているだけ」で済ませることができる。しかしこれは、全くの赤の他人に限った話。ここで問題になるのが、「期待」と「信頼」の存在だ。

 

私が生きてく中では、見知った人間が平穏に生きてくれてさえいればそれで十分で、叶う事ならばそれ以外の人間には少しの関わりも持ちたくない。一切の関わりをせずに生きていけるのならば、私はぜひそれを選びたい。友人や仲間や家族や恋人、頭の中にパッと浮かぶ顔とだけ接していれれば生きていけるのならば、どれだけ生活は満たされたものになるだろうか。つまり、期待あるいは信頼を出来る人間の存在が、私の幸福論の中には存在している。

 

そして私の幸せを奪うのはいつだって、その辺にいる知らない顔の奴らだ。ただごく稀に、見知った顔にあらぬ生活の妨害をされることがある。これはおそらく、「裏切り」あるいは、自身の「過度な期待」によって起こる。何れにせよ、こういう時は、仕方ない。自分の知らないところで無様な死を迎えてくれる事を願い、関係を切るより他はない。ぜひ、今すぐ消えてくれ。私は一向に困らない。むしろ喜ぶ可能性すらある。赤の他人よりも、この関係性を飛び越えて仇として返せるような人間の方が、よっぽど近寄りがたい邪魔者以外の他ならない。

 

閑話休題

話を戻すと、大抵の場合は自分の私生活を妨害するのは名前も知らぬ顔も初めて見た様な、クソである。それはいつまで経っても変わらない。それが積み重なる度に、年々人間に対しての興味が薄れていく。しかしそれこそが人間として生きていく大前提みたいなものだから、そう思うと途端に生きるのが楽になる。自分含めて人間とは、本人以外からしたら基本的にスタート地点では関わる価値のないクソなのだ。関わらずに済むならそれに越した事はない。

 

そんな事よりも、自分にとって期待と信頼を寄せる事が出来る人間に使う時間の方がよっぽど大切だとは思えないだろうか。人は何故、関わりもない人間に対してこうも執着できるのか。

 

期待と信頼を寄れるという事が、何と幸せな事か。どれだけ救われ、どれだけ笑い合い、どれだけ共に時間を過ごしたことか。奇跡みたいなものだろう。もう、それだけで十分ではなかろうか。これ以上必要だろうか。むしろ十二分だ。

 

あるいは、赤の他人の事に執着できる人間と言うのは、そんな人間に執着しないといけないほど、満たされてないのだろうか?そうなのだとしたら、それは随分生きづらいだろうな。お疲れ様な事だ。

 

 

そういえば、Slipknotというバンドの代表曲に

 

People=Shit

(人間=クソ)

 

という曲がある。

やはりSlipknotは天才である。

 

 

現状憂いて意味はなさず、過去に答えを。

皆さん、おはようございます、こんにちは、こんばんは。

 

いかがお過ごしか。

 

こちら、非常に生きる事について考えさせられまくってる日々です。

 

まずは生活の中心になっているのはもちろん仕事。そしてその次に音楽と自分にとって大切な人。

 

さらには恵まれてる事に友人や仲間が、両腕から溢れるほどに居る。

 

まずはその仕事が、まあ割と大変で、こんな自分でもそれなりの数の部下を持つ様にもなった。

 

そこに対しての責任もある。そうなってくると、割と時間と体力について考えなきゃいけなくなって来た。おそらくこれは必然で、嬉しい事でもある。

 

仕事では、やりたい仕事ではあるが、やりたい事よりもはるかに面倒臭い事の方が多い。100%を好きでまとめ上げるのは到底難しい話。

 

仕事してない時間は、できる限り能動的に好きな物事だけで埋め尽くしたいという想いが日々募る。

 

そう考えていくと、邪魔な物がとことん邪魔に感じ、自分の体力のなさに気付かされ、美味い時間の使い方を考え直し、伝え忘れた気持ちに気付く。

 

やってみてダメなら、その先に試行錯誤して執着できるほどあまりある時間はない。非常に残念な事だが、グダグダやる時間はもう出来なくなった。

 

既に割と抱えきれないくらいの物を人から貰ってる事にはずっと気付いていたものの、そこに改めて向き合ってみるのは意外とやってるつもりでできてなかったかもしれない。

 

そう考える一方で、今までだって手の届く範囲に全力でやってきたじゃないか、俺は。

 

出来事は常に意図しないタイミングで起きるし、人は変わるし、時代もうつる。これは俺には止められない。

 

悲しい事に。

 

ま、であれば仕方ない。伝わらないならそれでOK。手に入らないならそれでOK。与えられないならそれでOK。既に手にした物を磨き、摂取し、向き合うとしよう。

 

数年前の流行病に季節外れに倒れた時間に、ゆっくり考えられたのは怪我の功名ってやつか?

 

いいじゃん、俺結構大切な物貰いまくってる。

 

引き続き宜しく頼みます。

 

 

続・愛猫の死期

結局、週末少し顔を出し自宅に戻る予定だったけれど、なんだかんだ心配で休み丸々実家にいた。

 

オスネコは歩かずにずっとグッタリした様子だった。俺は猫の身体の事は専門外だけれど、腎臓を悪くした患者さんのことを想像したら、身体がだるくて動きたくないんだろうと思い、マッサージをしてあげようと思いたった。

 

思い立ったら直ぐにやらねばならない。

 

しかし触れてみたオスネコは、どうだろう。少し様子がおかしい。明らかに昔よりも細々して、毛並みの奥には以前感じなかった硬い感触があった。骨がゴツゴツと、痩せぼそってしまっていた。これが一番、心をえぐられた所かもしれない。食事をあまり取れていないのだろう。

 

ここの所、体調を崩し、獣医の先生方をはじめ、色々な人に、色々なことをされたからだろうか。人に対して警戒心が強くなっている様にも感じた。キサマ、何をする気だ?と言いたげな怪訝な鳴き声を向けてくる。にゃっ、ではなく、に"ゃっ、と言った具合のやつだ。

 

 

初めはマッサージする手を警戒していたオスネコも、手つきを丁寧にゆっくり、心の中で「大丈夫だ」と唱えながらマッサージをしてあげると、どうだろう。指先を通じて感じていた筋肉の緊張が、次第に抜けていくのが少しずつ理解できた。段々とリラックスしてくれる様に感じる。

 

少しでも身体のだるさが抜けてくれたらと、全身しっかりマッサージをしてあげた。そもそも猫の身体は人とは違う。よく分からないから、探り探り痛くならない様に、探り探り気持ち良さそうなところを探して、ゴロゴロ喉を鳴らしているのを確認しながら、探り探り。

 

そうしたらどうだろうか。次第にリラックスしてきたのだろう、ゴロン、と身体を翻して腹を見せてきた。どうやら間違った事はしていないらしい。喜んでくれている様だ。

 

 

しばらくの間。

 

その後、オスネコはおもむろに立ち上がった。

 

立ち上がり、家の中を歩いて見せてくれた。

 

日課の、家の中のパトロールをしてくれているようだった。

 

よう、変なやつはいないか?ボス。俺はそう声をかけた。

 

顔は真剣そのものもだった。俺のよく知るオスネコの顔だった。

 

嬉しかったなあ、元気に歩いてる姿をみれて。

しばらくするとまた寝てしまったけど、幾分か安心した顔で寝ていた気がする。

 

 

もしかしたら、猫にとってもマッサージは良い事なのかも知れない。そう思ったから、大まかな猫の筋肉の位置と、喜んでそうな箇所とマッサージの力加減を家族に伝えて、出来れば俺がいない時もしてあげて欲しいと伝えた。

 

また実家に帰ったらマッサージをしてあげようと思った。たまにしか帰らないやつ、という位置から、たまにマッサージしてくれる人、くらいにはなれたら良いと思う。

 

腎臓を壊してぐったりしているのはオスの愛猫なのだけれど、

 

もう1匹、うちにはメスの愛猫もいる。こちらも大切な家族だ。すこしだけメスネコの話にも触れよう。

 

その日の夜、オスネコが寝たあとの事だけれど

 

普段なら甘えてこないメスネコが

 

「にゃーーーーん。」

 

と甘えた声を出してきた。すごく珍しい事だ。

 

けれど珍しい事とはいえ、昔9年間ほど一緒に暮らした仲だ、何を訴えてるのかは何となくわかる。

 

こっちに来いと言わんばかりに振り返り、また鳴く。目を細めて、今度は短く、にゃっ、となく。

 

どうやらお気に入りの場所に案内している様だった。着いてきてほしい様だ。俺が着いてくることを確認すると、シッポを揺らしながらすこし足早にかけていく。

 

 

お気に入りのベッドにそっと登り、あたしにもやって、と言わんばかりにまた一言。

 

「にゃっ。」

 

 

なるほど。最近、オスネコの体調が悪かったせいか、家族がそっちばかりに構っていたのかもしれないと思った。それにうちのメスネコは元来、非常に嫉妬しいなやつだ。そうだった、思い出した。昔からオスネコに遠慮するわりに、あとで文句を言ってくる愛らしい女の子だった。

 

君もマッサージがして欲しいのか、と納得した。今はオスネコも寝ているしバレないね、と。

 

たくさんマッサージをした。寂しい思いをさせてすまないねと、心の中で謝りながら。

 

仕方ないとはいえ、猫は人ほど今の状況を理解出来ない。いや、あるいは、人以上に理解していていつも通りに振る舞っているのかもしれない。

 

 

メスネコの場合はとりわけ体調が悪いわけではないからか、いくらかマッサージしたらすぐ満足して何処かへ行ってしまった。気が済んだらとっとと自分の好きにする所が、猫が人たらしたる所以なのかもしれない。

 

しかしこれはまいったな。実家に帰るたび2匹ともマッサージしなければならないなと、久しぶりに触らせてくれた事に喜びながら思い耽った。

 

元気のない姿を目の当たりにして、心の休まらない休日にはなったけれど、こうもたくさん触れさせてくれたのも久しぶりだ。

 

ゆっくりと猫達と過ごす休日は悪くなかった。

 

後悔しない様に、時間を作らねば。もう少しだけで良い、辛くなりすぎない程度に、生きていてはくれないか。身体を壊しながら生きるのはきっと辛いだろう。また、会いに行く。

 

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愛猫の死期

こんなこと考えたくないが、実家に置いてきた愛猫はもう18歳になる

 

母から連絡もらって

 

ゴールデンウィークに膵炎でオスネコの方がぶっ倒れて以来、投薬治療が始まった

 

オスの方は膵炎に加えて、腎臓病ステージ3

 

メスの方は腎臓病ステージ2

 

 

週末、実家に帰ってきた。

獣医にもらった薬を教えてもらって、薬について色々解説した。

 

普段離れて暮らしてる俺が出来ることはせいぜいこのくらいしかない。

 

猫の投薬の日常を細かく教えてもらった

 

人間とは比べ物にならない大変さがあった

 

そんなのを、毎日やってくれてる、頭があがらない。

 

今年の頭に、一緒に暮らしてる家族は、数年前にもうお別れの覚悟はできていると聞いた

 

聞いた時は、なんてひどい事を言うんだと思ったりもしたけれど

 

 

離れて暮らしてる俺は、倒れたその日に居なかったし、日に日に衰えていく足取りを間近で見れてるわけじゃない

 

尚のこと、知らせを聞いてショックを受けた。

 

 

なんとなくわかってきた事

 

 

所詮たまにしか会わないなら、記憶の中の元気な姿が目に浮かんでる。弱って行くところを目の当たりにしてない。ショックを受けることしか出来ない。

 

覚悟を決めるだけの時間を接していないのだと。

 

 

面倒見てくれてる人の目の前で、落ち込む資格などあるのだろうかと、気を持ち直す。

 

 

覚悟くらい自分で決めとけ。あとはできる事をしよう。という事なのだろう。

 

覚悟、できるかなぁ。自信なんてない。

 

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ハローワールド・フロム・ザ・シック

皆さんおはよう、こんにちは、こんばんは。

 

お元気か。久しぶりだなぁ、ブログを書くのは。

 

リハビリをしている。

 

今日も思考をまとめていこう。書く事で頭の中を整理していこう。

 

さっそくだけど、

 

歳をとった、と言うのは極力避けたい言葉だったし、言葉である。

 

しかし、精神と乖離した物事は、そのギャップにあてられ、あたかもそう実感してるような錯覚に陥るもんだ。これについてもきっと例外じゃない。

 

一般的には、昔の様に体が動かないとか、朝起きてまず体調が優れないとか、筋肉痛が遅れてやってくるだとか、現実で身体が放つアラームによって、必要以上のリアルを叩きつけられる思いをするらしい。

 

しかしこれは自分にとっては似て非なるものだ。俺が言うこれは、「老い」を指して感じているのとは違っている。

 

肉体的というよりむしろ、価値観の変化が最もその理由たる物な気がしている。

 

 

Hello World ?From the sick.

 

 

差し詰め、今記した奇妙な英文のように、世の中に対して穿った見方をしていた頃、つまりまだまだ青臭い精神性だった頃において、世の中はもっと奇妙な物としてこの目に映っていたし、ごく普遍的にある最も身近な"異常"、それが世の中だった。

 

当時の感覚で言い換えれば、"世の中狂ってる"ってやつだ。その当時は、(あるいは今でも部分的には、)感じている事をうまく言語化する事が出来ず、この台詞に収束していた。

 

 

この、"おかしいだろ"、"狂ってる"、"異常だ"、"間違っている"という、根拠のない直感的な感覚が、自分の中では物凄いエネルギーを産んでいたと気付くことが出来ていたとしたら、ネガティブな言葉としてではなく、もっとポジティブな言葉として、表現できていたんじゃなかろうか。

 

直感が叫ぶ。世の中がおかしくて、自分はおかしくないと。

 

脆弱な精神性に置いては、そう感じる事はなんらおかしな事ではない。しかし、ある程度年齢と経験を積み重ねた人なら分かってくれると思うんだけれど

 

世の中がおかしいのではない。おかしいと感じる事は、それが起こり得るように、あらかじめ仕組まれている。これが名もなき秩序であり、当たり前に存在する大前提であると。多分どっかの誰かが混沌と呼んだモノなのだと思うが、きっとこれが詰まる所、今の普通なんだと思う。

 

だとしたら、こんなにも絶望的な状況ってあるか?

 

自分が一つおかしいと感じる事を思い浮かべて、試してみたい。それはよくよく考えればおかしくないのか、はたして。

 

できる限り伝わる様に勤めたい。手始めに漠然とイメージしやすい物で表現するとしたら

 

 

例えば、戦争。

 

戦争は良くない。これはわかる。そういう人の気持ちもわかる。そして俺も良くないと思う。

 

(※良し悪しの話は見方を変えれば、結果も変わるから割愛しよう。)

 

だが、戦争が起きるの事そのものが、おかしいと言えるだろうか?

 

何も考えなければ、ただ否定するだけで済むだろう。

 

というか、昔ならそれで済んだ。戦争が起きた結果、多くの人が不幸になるじゃないかと、机を叩きながら文句を垂れる事が出来た。

 

しかし、

 

疑問を追求すればするほど、おかしくないんだ。

 

あくまでも例え話だが、戦争ひとつとっても、

 

兵器と言うものが存在する。

紙幣というものが存在する。

秩序という脅かされたくない物が存在する。

格差がある。

国という単位で区切られている。

宗教という価値観の違いがある。

科学という人並外れた力がある。

人には欲がある。

国家という価値基準が存在する。

それは個人の価値基準とはかけ離れている

そして、

あろうことか、これらを取りまとめた

 

戦争を行う際の国際ルールが存在するときた

 

めちゃくちゃざっくりだが、目も当てられないと感じないだろうか

 

だいたい、今例えた様なプロセスが全てに当てはまる。あろうことか、最悪な事に、調べれば調べるほど、自分が疑問に思った物事に対して、ある程度の納得がいく。

 

何故なら、実際に起きている事は、起きる様に、あるいは恣意的に起こせる様に全ての仕組みが揃っているが故に起きる。それは、そうだ。だって起きてるんだもん。おかしいと思う事が。

 

様々な思考プロセスを試してみても、結果として起きたものは仕方ないになる。

 

論理展開で回避出来ないものを鼻から考える意味すらないのではないかと疑問に感じる。

 

それほど、異常が当たり前に存在する。

 

こうなっては異常だという価値観そのものがもしかしておかしいのではないか?と疑わざるを得ない

 

自分の感じた違和感全てに対して、大抵納得してしまう。当てはまってしまうから、今俺は非常に困っている

 

 

多くを知り過ぎた。非常に退屈である。

 

別段、自分が人より賢いとは思ってはいない。

 

それを踏まえても、もっとバカであるべきだったと思う。

 

むしろ一層の事、馬鹿みたいに人より賢いと思い込んでいた方がまだマシだった。

 

謎はある。それにいくらでも出てくるが、調べ考えれば大抵そういうもんかと悟る結果になり、非常につまらない。やっぱりおかしいよ!という感覚は一体何処へ消えてしまったのか。

 

よく分からないのは学問くらいなんじゃなかろうか。よくわからないけどさ。

 

謎の理論を展開して、世の中を否定して、自分自身を肯定してた頃の方が、精神衛生上、今よりも幾分かよろしかったと感じる。

 

けれど今となっては

 

大抵の、いやそれおかしいだろと言うものは、ちょっと考えれば、「いや、そんなもんか。」になってしまう。

 

これが、非常に、つまらない。

 

こうなってしまった理由やプロセスは色々あるんだけれども

 

最も大きいのが

 

 

『人間なんてたかが知れた生き物』感を感じてしまった事だった。

 

そして、自分自身もその人間である事も酷く傷ついた。

 

関係ない人間の、自分に関係のない事に対して生活を脅かすほどに怒る事ができ

 

人の命を画面越しから殺害する事に何とも思わない

 

人は簡単に人を殺すし、人は簡単に人を妬む

 

そしてそんな簡単に人を脅かす人という生き物は

 

猫がいじめられる動画をひとたび見ればたちまち怒り狂う

 

そうしてまた人の命を画面越しに斬り刻む

 

そして今話した内容なんてのは、ごく最近に区切った話で

 

画面越しでなくともそれをやってのける

 

猫の方がよっぽど生き物として立派だとさえ思う様になった

 

俺は猫が好きだからな。

 

閑話休題、話を戻そう

 

昔自分が想定していた世の中は、もっと明るく非常に慈悲に満ちた世界だった。

 

 

だからそこに異物として見えた物はごく自然におかしいと思ってきた。

 

 

けれどもいつしか、世の中に対して感じるモノは反転してしまった。今身近に感じるのは慈悲に満ちた世界でなく、もっと薄汚く色彩の薄暗い、混沌とした世界だった。

 

慈悲に満ちた世界の方がよっぽど異常に感じる。

 

もうしばらくはそれが当たり前になっている。

 

みんな毎朝起きるだろう

 

ハローワールド・フロム・ザ・シック

 

毎朝、病んだ世の中で挨拶を繰り返している。

皆はどうか。

 

自分は病むまい病むまいと気をつけてるつもりだったが、長い目で見ると非常に大きな変化をしてしまった

 

これが良いことなのかよく分からないまま進む。誰に向けてでもなく、ただひたすら何かに挨拶を繰り返している感覚が途絶えない

 

一体何に話しかけてるんだから分からない感覚がとても気持ち悪いよ

 

だが同時にこの気持ち悪さは忘れてはならないはずだ

 

 

 

p.s

 

最後に、写真だけ載せておこうと思う

 

この写真はおおよそ10年前

 

個人的にはかなり気に入っていて、定期的に見返す

 

それこそ慈悲に溢れた世界に浸っていた頃

 

人から借りた一眼レフで撮った

 

自分から見て最も異常で、非現実的だと感じた光景の写真

 

あまり上手く撮れてはいないが、とても気に入ってる

 

 

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創造と想像にやられた話【楽曲制作】

皆さんおはようございます、こんにちは、こんばんは。

 

drummer

LANPAZIE

無責任ロジカルーム

などで音楽活動をしているリョウマサヒロです。

 

私は最近、無責任ロジカルームで相方のヴァイオレンス藤﨑。くんと一緒に音楽を作っています。その中で最近はもっぱらDTMという手法で音楽を作っています。

 

自分がやっているのは、歌詞の作成、メロディのマイナーアレンジ、そしてその歌をボーカロイドに歌ってもらうための仮歌の収録と、コーラスやハーモニーワークのアレンジ。

 

音楽活動の中で歌詞に深く触れる機会は多々あったけど、本格的に歌詞を書き始めたのはここ最近なので、諸先輩方に学ばせていただきつつやってる感じです。

 

私の背景としてはこんな感じ。

 

それで、今日ブログで話すのは、この間まで作っていた曲の話です。

 

 

 

本日発表ありましたが、相方のヴァイオレンス藤﨑。くんが新作をリリースしました。

 

https://linkco.re/PVx5xudh

 

是非ご一聴ください。

 

まずは、ふじ君リリースおめでとう御座います。素晴らしいです。

 

 

もしこの曲を聴きながらブログ読める人がいたら是非、歌詞とメロディ、ハーモニーに注目してほしくて。

 

 

 

実は今回、無責任ロジカルームからも近々曲が発表されるのですけど、

 

タイトル・歌詞・メロディ・ハーモニー違いの楽曲が発表されます。つまり言い換えればオケはほぼ同じです。(ミックスや細かなところは多少違うと思います。)

 

 

先月だったか、先々月かな、ダブルスタンダード的な意味でふじ君のソロと無責任ロジカルームから曲を出す話を持ちかけてもらいました。

 

 

こういう試みはなんとなくのイメージだと、オケが決まってる中での歌のコンペとかでしか聞けないイメージがありますね。

 

同じ曲なのに、歌詞や声、ハーモニーが違うだけでまるで違うイメージになるなというのを、今回ふじ君のソロ曲を聴いて思いました。

 

彼は違うことを私に話してくれたけど、私からしたらソロ曲の歌詞は抜群に素晴らしく、とてもじゃないけど足元に及ばないと思ってます。ただ、書いている内容が全く違うのと、今回の曲で表現してることも違う。

 

だからそこには私が書いた歌詞のver.に聞く価値が多分にあると自負してます。

 

私が作りたかったのは、現在作成中の、これから出てくるであろう無責任ロジカルーム中でのキャラクターに宛てたキャラクターソングです。

 

もしVtuberやアニメ、キャラクターソングが好きな人がいたら、少し気にしてくれるとありがたい。

 

最近はアニソンDJやアニクラなんかも流行っていて、自分の好きなものに対する表現をする文化が派手に広がってる印象があるけれど

 

 

自分にとってこの活動はそれと同じです。私はロックが好きですが、それと同じくらい日本のアニメやVtuber文化をリスペクトしてます。

 

そこに嘘偽りは、ないかな。

 

相方ではあるけど、ヴァイオレス藤﨑。くんに多大なる協力を頂きながら、形にした。

 

 

キャラクターより先行して音楽が世に流れてるのも、個人的には意味があるんだけど、そこは説明すると野暮なので感じてもらえるよう精進致します。

 

 

制作中は、頭の中がかなりイカれてました。

自分の中の事を歌にして書くのは正直私には難しく、出来ないんですけど

 

自分が今作ってるキャラクターのことを掘り下げる形だと、ものすごくスラスラ言葉が出てきます。

 

ただ、その衝動のままに作っていくと、矛盾が出たり、キャラクター性がブレたり、エピソードを描かなければならなかったり、このキャラクターならこう聞かれたらどう答えるかとか

 

そういうのを想像していたら頭の中が阿鼻叫喚。

 

 

不眠の日々をしばらく過ごしました。歌詞を書くって、非常に大変な行為だ。

 

 

先に明言しておくと私は歌詞とハーモニーやコーラスは作ったけど、メロディはあくまでも基礎のところから歌詞に合わせて少しアレンジしただけです。

 

それを編曲

 

という人もいるみたいだけど、個人的にはふじ君におんぶに抱っこの状態で、だからひたすら少ないやれる事を本気でやってみた。みたいな感じです。

 

ふじ君は私に嬉しい事を言ってくれたけど、君の作業量に比べたらまだまだ足元にも及ばないのを理解してるつもりなので、引き続きよろしくお願いします。

 

 

今週金曜日にロジカルームの収録があります。

 

その回で発表になると思う。

 

是非楽しみにしてて下さい。

 

 

 

リョウマサヒロ